秀行さんの勝負手(盤外)
囲碁の棋士、藤沢秀行九段が逝って2週間が経った。囲碁愛好家の一人として翔年は棋士が表現する盤上の戦い方に関心を持つが、同時に棋士その人の生き方にも大きな興味を持つ。とりわけ、秀行さんへの関心が高かったことは、こんな本が我が本棚にあることからもわかる。世間では無頼派棋士とも言われていたが、心のうちで喝采をしたり、人生の師としていた人も多かったにちがいない。
秀行さんの人生は
たまさんの「人セム」を是非見ていただきたい。
ここです。
「
人生の大局をどう読むか」ごま書房(昭和60年6月刊)、「
耐えて勝つ」講談社(1986年4月刊)、「
勝負の極北」藤沢秀行、米長邦雄共著 クレスト社(平成9年3月刊) これら秀行さんの一般書には人生の指針とするにふさわしい言葉がいっぱい溢れている。
ちょっとこれらの本から抜き出してみよう。
1 成功にこだわるより、まず自分の芸を磨け
2 悟ったと思ったときから、老いは始まる
3 目先の利を捨てて、”厚み”をとる
4 能力の限界を早合点するな
5 エリートの”定石”より、ヘボの”工夫”に価値がある
6 相手によって、付き合い方をかえるな
7 人生では計画性より自在性がものをいう
8 電車のホームから転落したことがあった。(中略)この事件は、何か私の碁と共通するものを持っている。(中略)私は普通のことが盲点になってしまうようである。後年、”ポカの秀行”といわれるきざしがここにあらわれている。
9 林海峰君の”勝負のこころは日常にあり”ということばに、私は共感を覚えた。勝負とはある意味では一過性のものだと思う。一局の勝敗でことを論じるのはおよそ意味がない。
10 本物は小難しいことを言わない
11 「竿(サオ)」を噛まれた
うちの女房は噛みつくんです。あそこを噛みつかれて血が出た。(中略)痛いの何のたってね
12 いつの時代にも、世の中には迷える子羊がたくさんいます。そういう人が救いを求めて宗教へ入るわけだけど、身ぐるみはがされて、もう散々な眼に遭っている。宗教に入ってそんな目に遭うなんて、もうムチャクチャですよね。お釈迦様を祀っている連中が、迷える子羊を食い物にしている。けしからんね。お釈迦様を食い物にして。
次は秀行さんの盤外の勝負手について書こうと思う。読者のご想像のとおり、あまり上品な逸話ではありません。無頼派の勝負手など読みたくないというお方はここまで。多少不愉快でも、何か益することもあるかもしれないと考える向上心のいささかでもお持ちの方は、「続きを読む」をクリックして先へお進みください。
秀行さんの勝負手(将棋のY.K九段から聞いた話)
当時、秀行さんは酷い「アル中」だった。アルコールのために精彩を欠いた秀行さんがNHKのTVで放映されたこともあるし、日本棋院に酒の匂いをまき散らしながらやってくることもよくあったそうで、心ある人は眼を背けざるを得ない状態が続いていた。
そんなある日、日本棋院の和室のふすまを「ガラッ」と開けて、年配の女性棋士が数人いるのを見た秀行さん。「何だ! 腐ったお○○こばっかりだ」と言うか言わぬうちに「ピシャ」と閉めた。
あまりの狼藉に怒り心頭にきた女(ヒト)がいたとしても不思議はない。なんせ、日頃が日頃だけに、ここは一つ懲罰委員会にかけて「秀行にお灸をすえるべし」となり、懲罰委員会の準備が進められていた。絶体絶命の秀行さん。
そのような時に、懲罰委員会開催準備中の女性棋士の集会に単身乗り込んだ秀行さんは、開口一番こうのたまった。
「私の日頃の言動が皆さんの顰蹙をかっているのは知っている。ところが、自分はアルコールが入ると前後不覚の状態になり、当日私が何を言ったのか皆目覚えていない。ついては、自分が何をいったのか、何を言ったので皆さんを怒らせたのか、ハッキリ教えていただきたい!」
一座はシーンとなった。居並ぶ錚々たる女流棋士達、だれも秀行さんの発した「放送禁止用語」を口にすることは出来なかったという。
懲罰委員会であれ、査問委員会であれ、原因となる言動が確定できなければ意味がない。こうして秀行さんを懲罰委員にかけるという話はいつの間にかウヤムヤのうちに沙汰止みになった。
相手の意表をついた秀行さんの態度に翔年は感心しました。
碁冥福をお祈り致します。
Posted by mtmt0414 at 13:08│
Comments(6)│
TrackBack(0)
この記事へのトラックバックURL
taka さま
他人に対して異なる意見を言うときは、自分がそう考える理由を述べるのが普通です。
それをしないあなたは「只の嫌がらせ」です。
小生はそういう人間になりたくありません。たとえ「アル中爺」になっても…。
只のアル中爺だな。
高野圭介 さま
貴重なコメントをありがとうございました。
「酒は身を滅ぼす」といいいますが、秀行先生は土俵際で踏みとどまることができたのですね。
棋風と同じく、人生も堂々としていて「厚み」があった。「厚み」は余得を生む。
それに「学ぶ姿勢」が素晴らしかったですね。
先生は「三歳の童子たりとも導師なり」を再三言われました。「相手が誰であれ、その人が導師であるという気持ちを失ってはいけない」と。
(コメント字数制限にかかって乱れていた箇所を訂正しました。これでよろしいでしょうか?)
秀行先生と酒の思い出です。
河本敏夫先生が郵政大臣に就任されて、お祝いの会が東京で催されたときのことである。
たまたま私の家に投宿されていた宮本直毅先生と二人で、お祝いに上京した。
そのとき、宮本先生に連れられて、秀行先生の宅へ立ち寄ったのである。宅といっても、奥様のいらしゃる宅ではない。彼女の宅である。
石田芳夫先生の吹き込んだ歌のテープを聴いておられた秀行先生に案内されて、二階へ。
やがて、先生は階段を何回も上り下りして、すき焼きの用意をされた。
やがて徳利を手にとって「おお、いい燗だ。高野さんどうぞ」と、盃を差し出された。
私はビックリした。「いえいえ、先生こそ、どうぞ・・・」
そのときである「今、酒を止めていますので・・・」
あ、そうか、大事な対局前か!とすぐ分かった。
でも、あれだけの酒豪である。良い燗の、酒の臭いのまっただ中にいて、この応対はいったいどういうことか?
その晩泊めて貰って、翌朝、この世の出来事とは思えないまま辞した。
− 高野圭介 −
たま さん
どうぞ、どうぞ。
秀行さんのいい言葉を多くの方に知ってもらえば、小生はうれしいです。
秀行さんの人生の指針とするにふさわしい言葉の数々、「人セム」のバイボに載せさせて下さい。
お願いいたします。