December 04, 2016

続・ 「サピエンス全史(上)、(下)」 -実に刺激的で面白い本!-

サピエンス全史002

 先月25日のエントリーの続きです。
下巻を今日読了。今年翔年が読んだ本の中で最高の書籍と確信しました。


 タイトルは   「サピエンス全史(上、下)」  "Sapiens"  

サブタイトルは 「文明の構造と人類の幸福」 "A brief History of Humankind"  

作者は    ユバル・ノア・ハラリ     Yuval Noah Harari

翻訳者は   柴田裕之 河出書房新社
(2016/9/30初版発行、1,900円×2)



 下巻は、第3部 人類の統一 の12章からです。


 

第12章 宗教と超人的秩序 
 → 神々の台頭。今日、宗教は差別や意見の相違、不統一の根源とされることが多い。ただ、歴史的に見るとおおかたの宗教は社会の安定にある種の寄与をしてきたことは認めるべきでしょう。神を信じておれば不安が取り除かれるのだから。
 筆者は数ある宗教の中で仏教には他宗にない「物事をただあるがままに理解すれば、もはや苦しみはなくなる」と説く「心の鍛錬」に言及しているのはさすがと思いました。

第13章 歴史の必然と謎めいた選択
 → 歴史は進化と同じで、個々の生き物の幸福に無頓着だし、それに個々の人間もあまりにも無知で弱いので、歴史の流れに影響を与えて自分に有利になるようにすることはできなかった。


第4部 科学革命

第14章 無知の発見と近代科学の成立
 → 科学には無知を認める意思がある。そのため従来の伝統知識(宗教家などの権威によるもの)のどれよりも、ダイナミックで柔軟で探求的で、進歩がはじまった。知は力になった。科学を援助する人々が増えた。

第15章 科学と帝国の融合
 → 科学技術と帝国主義と資本主義が過去500年の歴史を動かすエンジンとなった。金儲けを追及する実業家がいなかったら、コロンブスはアメリカに到達しなかっただろうし、ジェイムス・クックはオーストリアにたどり着かなかっただろう。

第16章 拡大するパイという資本主義のマジック
 → 進歩という考え方は、もし我々が自分の無知を認めて研究に投資すれば、物事が改善しうるという見解の上に成り立っている。やがてこの考えが経済にも取り入れられた。
 進歩を信じる人々は、地理上の発見やテクノロジー上の発明、組織面での発展によって、生産や交易、富の総量を増やすことができると確信した。
 アダム・スミスは経済を「双方のためになる状況」として考えるように説いた。富と道徳は矛盾しないどころか、全員の利益のために経済成長の歯車を回すのは起業家だということになった。
 資本は強欲なところがある。しかし資本主義が気に入らなくても、我々は資本主義なしでは生きて行けない。(共産主義は比較にならないほど劣るから)

第17章 産業の推進力
 → 利益を生産に再投資すると経済は成長する。 食べる量を減らせば経済は縮小するが、人々はそうする代わりに食べ過ぎ、その挙句、減量用の製品を買い、ジムに通って二重三重に成長に貢献する。資本主義と消費主義は表裏一体。
 また、著者は狭いケージの養鶏場のめんどり、狭い柵の中の乳牛や養豚場のメス豚にも眼を向ける。それらの動物は原材料を取り込む口と商品を生み出す出口を持つ産業機械としての存在でしかないと…。 だが、哺乳類は複雑な感覚構造と感情構造を持っている。彼らは身体的苦痛を感じるだけでなく、感情的苦痛も被りうるという指摘も忘れない。これは人類の幸福を考察するのに繋がる。

第18章 国家と市場がもたらした世界平和
 → 国が管理する裁判所や警察はおそらく、世界中の安全水準を引き上げた。(現在、アマゾンの奥地で暮らす軍隊も警察も監獄ももたない先住民の部族では、男性の四分の一から半数が、財産や女性や名誉をめぐる暴力的な諍いによって、早晩命をおとしている)
 核兵器の出現で戦争は集団自殺に等しいものになり、武力による世界征服は不可能になった。戦争の代償が急騰し、得られる利益は減少した。
 戦争は採算が合わなくなり、平和からはこれまでにない利益があがることが明らかになった。日本を見よ!
 各々の国家は領域内の平和を強化するから、実質的に世界平和を推進することになる。これは楽観論。
 悲観論者はさまざまな偶然が重なれば我々は危険な方へ進みかねないという。私たちは天国と地獄の両方の入り口に立っているのかも知れません。

第19章 文明は人間を幸福にしたのか
 → 幸福度を何で測る? お金? 家族? 遺伝的特質? 徳?
 この問題の解明に著者の慧眼は仏教に眼をつけた。著者は仏教はおそらく人間の奉じる他のどんな信条と比べても、幸福の問題を重要視していると考えている。科学界で仏教哲学とその瞑想の実践の双方に関心が高まっている所以でもある。

第20章 超ホモ・サピエンス
 → ホモ・サピエンスは自然選択の法則を打ち破りはじめており、知的設計の法則をその後釜にしようとしている。
 すなわち、それは「生物工学」「サイボーグ工学」(有機的器官と非有機的器官を組み合わせた生き物)、「非有機的生命工学」だ。
 別の生命体が誕生する。現時点では、これらの可能性のうち、ほんの一部しか実現していない。
 倫理、政治、イデオロギーの問題が多発するだろう。法律家はプライバシーとアイデンティティの問題を考え直さねばならず、、政府は医療と平等の問題の再考をせまられ、スポーツや教育界はフェアプレイと成績を再定義する必要があるし、年金基金と労働市場は60歳がかっての30歳に相当しうる世界に適合するように再調整せざるを得なくなる。
 誰もが生物工学やサイボーグ、非有機的生命の難問に対処しなくてはならなくなってくる。神の地位についたホモ・サピエンスはかってなかったほど強力だが、その力を何に使えばいいのか?


著者は言う。
  
自分が何を望んでいるのかもわからない、不満で無責任な神々ほど危険なものがあるだろうか?



 本書は読書の醍醐味を存分に味合わせてくれました。素晴らしい良書です。ですが、読者にこの本の全貌を自分の言葉で語ろうとすると、非力な翔年は5回ぐらい精読し、なにがしの参考図書を数冊読んで、半年ぐらい熟慮してからでないと、とても書けない大きな深い内容があると感じました。そして良書を愚劣な要約にすることは避けたいと思いました。

 やむを得ず、目次を並べてその項目の中のほんの数行をピックアップして、内容の一部ををお伝えすることにしました。著作権で許される引用の範囲を大きく逸脱していますことを、著者にもBlog読者にもお詫びいたします。

 地球上の生き物の頂点に立って、創造主に匹敵する力をもった私たちは、自分たちの文明の歴史をしっかり認識し、何がもっとも人類に幸福をもたらすかを真剣に考えるべき時期に来ているようです。難しいことですが、浅薄な議論にしてはならないと思っています。







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Posted by mtmt0414 at 16:13Comments(0)TrackBack(0)

November 25, 2016

「サピエンス全史(上)、(下)」 -独創的なズシリと重い本-

 いやぁ、今年一番の収穫になりそうな素晴らしい本に出会いました。
 
タイトルは   「サピエンス全史(上、下)」  "Sapiens"  

サブタイトルは 「文明の構造と人類の幸福」 "A brief History of Humankind"  

作者は    ユバル・ノア・ハラリ     Yuval Noah Harari

翻訳者は   柴田裕之
 河出書房新社(2016/9/30初版発行、1,900円×2)


サピエンス全史001
 
 上巻の「目次」のすぐ後に、こんな「歴史年表」が何の説明もなく示されます。今まで、こんな歴史年表は見たことがありません。(笑) なんと興味深い年表でしょう。

135億年前  物質とエネルギーが現れる。物理現象の始まり。
        原子と分子が現れる。化学現象の始まり。
45億年前   地球という惑星が形成される。
38億年前   有機体(生物)が出現する。生物学的現象の始まり。

600万年前  ヒトとチンバンジーの最後の共通の祖先。
250万年前  アフリカでホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器。
200万年前  人類がアフリカ大陸からユーラシア大陸へ広がる。
          異なる人類種が進化する。
50万年前   ヨーロッパと中東でネアンデルタール人が進化する。

30万年前   火が日常的に使われるようになる。
20万年前   東アフリカでホモ・サピエンスが進化する。

7万年前   認知革命がおこる。虚構の言語が出現する。
        歴史的現象のはじまり。ホモ・サピエンスがアフリカ大陸の外へ広がる。
4万5000年前   ホモ・サピエンスがオーストラリア大陸に住みつく。
        オーストラリアの大型動物が絶滅する。
        ホモ・サピエンスが唯一生き残っている人類種となる。
3万年前    ネアンデルタール人が絶滅する。
1万6000年前  ホモ・サピエンスがアメリカ大陸に住みつく。
        アメリカ大陸の大型動物相が絶滅する。
1万3000年前  ホモ・フローレシェンシスが絶滅する。
        ホモ・サピエンスが唯一生き残っている人類種となる。

1万2000年前   農業革命が起こる。植物の栽培化と動物の家畜化。永続的な定住。
5000年前   最初の王国、書記体形、貨幣。多神教。
4250年前   最初の帝国--サルゴンのアッカド帝国。

2500年前   硬貨の発明--普遍的な貨幣。
          ペルシャ帝国--「全人類のため」の普遍的な政治的秩序。
        インド仏教--「衆生を苦しみから解放するため」の普遍的な真理。
2000年前  中国の漢帝国。地中海のローマ帝国。キリスト教。
1400年前  イスラム教。
500年前  科学革命が起こる。
        人類は自らの無知を認め、空前の力を獲得し始める。
        ヨーロッパ人がアメリカ大陸と各海洋を征服し始める。
        地球全体が単一の歴史的領域となる。
        資本主義が台頭する。
200年前  家族とコミュニティが国家と市場にとって代わられる。
        動植物の大規模な絶滅が起こる。

今日  人類が地球という惑星の境界を超越する。
      核兵器が人類の生存を脅かす。
    生物が自然選択でなく知的設計によって形作られることが多くなる。

未来  知的設計が生命の基本原理となるか?
      ホモ・サピエンスが超人たちに」取って代わられるか?




 さて、前後しましたが「目次」には以下のような独創的な項目がずらずらっと並んでいます。目をくぎ付けにされますね。

第1部 認知革命
 第1章 唯一生き延びた人類種 → サピエンスです

 第2章 虚構が協力を可能にした → 見知らぬ人どうしの協力

 第3章 狩猟採集民の豊かな暮らし → 原初の豊かな社会

 第4章 史上最も危険な種 → サピエンスはあらゆる生物のうちで最も多くの動植物種を絶滅に追い込んでいる。「私たちの祖先は自然と調和して暮らしていたと主張する環境保護運動家を信じてはならない。」とは著者の主張です。


第2部 農業革命
 第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇 >→食料の総量は増やしたが、
より良い食生活や、より長い余暇には結びつかなかった。むしろ人口爆発と飽食のエリート層の誕生につながった。
 ホモ・サピエンスの身体はリンゴの木に登ったり、ガゼルを追いかけたりするように適応していたが、石を取り除いたり、水桶を運んだりする農作業に向いていなかった。人類の脊椎や膝、首、土踏まずにそのつけが回された。古代の骨格を調べると、農耕への移行のせいで、椎間板ヘルニアや関節炎、ヘルニアといった多くの疾患がもたらされたことが解る。そうだったのか、目からウロコです。
 
 第6章 神話による社会の拡大

 第7章 書記体系の発明 >→ 文字と数字をデータとして記録する。

 第8章 想像上のヒエラルキーと差別

第3部 人類の統一
 第9章 統一へ向かう世界 → 歴史に方向性があることを示唆している。

 第10章 最強の征服者、貨幣

 第11章 グローバル化を進める帝国のビジョン → 多くの人が特定の民族や国籍の人としてではなく、人権を擁護して全人類の利益を守ることが政治の指針であるべきと考えるようになってきた。どのような独立国であれ、地球温暖化を単独で克服できない。しかし、現時点の世界は政治的にバラバラ。

 アメリカ次期大統領のトランプ氏の政策は、アメリカ一国の繁栄を目指すものが多いが、地球規模の歴史的視点の欠如、理想主義の欠如が感じられます。

 明らかに大きな歴史の流れに反しているように見えます。
 


常識を覆されたり、新しい物事の見方を教えられた箇所を矢印(→)でちょっと補足説明しました。この本で示されたように、ホモサピエンスはもっともっと視野をもっと広げてグローバルな視点で、地球文明を考える時期に来ているのではないでしょうか?


サピエンス全史002


 現在、下巻の50ページあたりを読んでいます。読了したら、またこの続きを少し書き足したいと思ってます。


 この本をある友人に見せながら、「もうすぐ読み終わるので、お貸ししましょうか?」と言ったら、「いいえ、今日帰りに買いますから」という力強い返事でした。(笑)

 また、「もの言う翔年」の読者のお一人、あるBloggerさんは「教団X」を読まれた読後感の後に、「 また、ズシンとくる本、教えてください。」と書いておられた。これをお勧めしたい。







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September 27, 2016

天皇陵は謎ばかり -宮内庁の厳禁措置の弊?-

天皇陵の謎

 前エントリー「天皇の「生前退位」問題を考える -その真意は? ソースは? 黒幕は?-」で宮内庁の役人がメディアと国民に向かって公然と嘘を言っていることを書きました。

 未だに宮内庁の山本信一郎次長が「天皇陛下が『生前退位』の意向を宮内庁関係者に伝えているという事実は一切ない。そうした前提で、今後の対応を検討していることもない。」と7月13日に述べた言葉は取り消されていません。

 7月13日以来、次々とメディアが伝えているのは、この役人の言葉とはまったく正反対の事が次々と報じられています。

 象徴天皇は政治権力はOですが、権威は温存されているので、こういうことが起こるのでしょう。困ったことです。この傾向が強くなると、国民はだんだん天皇や天皇制について、自由に物が言えなくなります。


 さて、翔年は高槻市在住です。実は高槻市には第26代継体天皇陵があるのです。宮内庁は認めていませんが…。
 そこのちょっと微妙な話から始めます。(笑)




 宮内庁が継体天皇陵として守っているのは高槻市の隣、茨木市太田3丁目にある正式名称は「三島藍野陵」、古墳名は「太田茶臼山」です。古墳の規模は全国21位、天皇陵の見本のような、風格に満ちた巨墳だそうです。(素人の翔年には古墳の風格といわれてもピンときませんけれど…)

 ところが昭和61年5月、この古墳の外堤の内側から、継体天皇の没年よりも百年近くも古い5世紀中葉の円筒埴輪の破片が2千点も発見されたのです。宮内庁の外堤護岸工事に伴う事前発掘調査で出土したので、学者だけでなく我々周辺市の住人もびっくりでした。
 
 もっと驚いたことに、継体陵から北東へ1.5Km離れた我が高槻市郡家新町にある国指定の史跡、「今城塚古墳」が急に脚光を浴びることになりました。何故かというと、今城塚古墳は大正時代から継体天皇の真陵であると考えられてきた歴史があったからです。大きさは前方後円墳としては全国40位程度ですが、後期古墳としては抜群の大きさだそうですから特に問題なし。

 古墳の外形から築造年代は6世紀前半。継体天皇の没年に合致。その年代の形象埴輪や円筒埴輪も、二重濠の間の中堤から出土しました。

 今城塚は文献「延喜式」の記載と考古資料が完全に一致しており、ほとんどの学者がこれこそ本物の継体天皇陵として断定する古墳になったのです。

 このような事実によって、ほとんどの学者が今城塚古墳は継体天皇陵であると結論つけているのに、宮内庁はこれを継体天皇陵とは今も認めていません。そして茨木市太田の「三島藍野陵」は天皇陵として立ち入り禁止にして守っています。

 翔年は一役所にすぎない宮内庁がどんな権限で、学者の立ち入りさえも禁止するのかサッパリ分かりません。 多分不都合なことがあるのでしょう??? 何かわかりませんけれど。でも一役所の判断でそんなことをしていいものでしょうか?
権威主義がそうさせるのか? 墨守主義がそうさせるのか? 結果として正しい歴史を隠蔽し、日本文化の源流を歪めていると思えてなりません。



 このエントリーでは、陵墓のことを学問的に公平な立場で、かなり突っ込んだ主張がなされている矢澤高太郎著「天皇陵の謎」文春新書刊に全面的に頼りながら、「歴代天皇陛下一覧とその陵墓」という表を作ってみました。煩を避けるため古墳に焦点を当てています。
 
1. 宮内庁が管理している天皇陵を中心とした陵墓が196も存在しており、それらのすべては一切の立ち入り厳禁処置がとられている。

2. しかもそこに眠っているはずの天皇は9割近くが別人の可能性が高いと最近の考古学や歴史学の研究から分かって来ている。

3. それにも関わらず、宮内庁が江戸時代と明治時代に定めた天皇陵を頑なにガードを固めており、新しい知見が得られても一顧だにしません。

このような、事実や学術的知見の進歩に目を塞ぎ、こと勿れ主義の宮内庁の対応に不満を抱く立場から、歴代天皇の一覧表に天皇陵のほとんどが、考古学的、学術的に疑問が多く、そこに葬られている人物も天皇『かどうか、これも不確かなものであることを示したいと思います。勿論、学問には多様な学説があってあたり前、また学問的知見は漸進するものですから、これが絶対というものではありません。少なくとも、現在において大きな問題提起だとお考えいただければ幸いです。

 
歴代天皇

歴代天皇陛下一覧とその陵墓(古墳に焦点を当てています)

1. 神武天皇〜開化天皇までの9人は現歴史学、考古学では実在が完全に否定されていますが、豪壮な陵墓はある。幕末に徳川幕府が朝廷政策の一環として新造、整備したものである。バカバカしいので空欄にしてます。

2. 後代天皇の陵墓と埋葬者についても、そのほとんどが考古学的、学術的に「?」です。

3. 宮内庁はこのような不確かな歴史を固定し、陵墓を立ち入り禁止の閉鎖的環境にして、守っています。

4. 継体天皇陵のように、考古学的、学術的発見や進歩があっても、これらの陵墓の間違いが正されることは決してありません。


「代」  「天皇(よみかな)」    「陵墓(所在地)、埋葬者、疑義?等」
1代   神武天皇(じんむ)      
2代   綏靖天皇(すいぜい)    
3代   安寧天皇(あんねい)    
4代   懿徳天皇(いとく)    
5代   考昭天皇(こうしょう)    
6代   考安天皇(こうあん)    
7代   考霊天皇(こうれい)    
8代   考元天皇(こうげん)    
9代   開化天皇(かいか) 開化天皇陵(奈良市)前方後円、古墳の形式?? 
10代  崇神天皇(すじん) 崇神天皇陵(天理市)前方後円、 考古学的に?
11代  垂仁天皇(すいにん) 垂仁天皇陵(奈良市)菅原伏見東陵? 前方後円 
12代  景行天皇(けいこう) 景行天皇陵(天理市)前方後円 考古学的に? 
13代  成務天皇(せいむ) 成務天皇陵(奈良市)前方後円 考古学的に? 
14代  仲哀天皇(ちゅうあい) 仲哀天皇陵(御所市、藤井寺市?) 前方後円 検討の余地あり
※以上の天皇は実在が確認できない。神話時代の天皇と呼ぶ学者もいらっしゃる。

15代  応神天皇(おうじん) 応神天皇陵(羽曳野市)前方後円 考古学的に?
16代  仁徳天皇(にんとく) 仁徳天皇陵(堺市)前方後円 真の埋葬者は?
17代  履中天皇(りちゅう)  履中天皇陵(堺市)前方後円真の埋葬者は? 考古学的に?
18代  反正天皇(はんぜい) 反正天皇陵(堺市)前方後円 真の埋葬者は? 古墳の形式?
19代  允恭天皇(いんぎょう) 允恭天皇陵(藤井寺市)前方後円 考古学的に?
20代   安康天皇(あんこう) 菅原伏見西陵(奈良市)山形、古墳? 暗殺された天皇
21代   雄略天皇(ゆうりゃく) 雄略天皇陵(羽曳野市)円? 付近の古墳検討要! 
22代   清寧天皇(せいねい) 清寧天皇陵(羽曳野市)前方後円 付近の古墳余地?
23代   顕宗天皇(けんぞう) 顕宗天皇陵(香芝市)前方後円 古墳か疑問? 
24代   仁賢天皇(にんけん) 仁賢天皇陵(藤井寺市)前方後円 付近の古墳の余地? 
25代   武烈天皇(ぶれつ) 武烈天皇陵(香芝市)山形、古墳か疑問?  
26代(507-531)  継体天皇(けいたい) 継体天皇陵(茨木市?埋葬者? 高槻市〇)前方後円
27代(531-535)  安閑天皇(あんかん) 安閑天皇陵(羽曳野市)前方後円 考古学的に?
28代(535-539)  宣化天皇(せんか) 宣化天皇陵(橿原市)前方後円 付近の古墳の検討?
29代(539-571)  欽明天皇(きんめい) 欽明天皇陵(明日香村)前方後円 見瀬丸山古墳?
30代(587-592)  敏達天皇(びだつ)  敏達天皇陵(太子町)前方後円 墳形の形式?
31代(585-587)  用明天皇(ようめい) 用明天皇陵(太子町〇)、方墳 考古学的? 
32代(587-592)  崇峻天皇(すしゅん) 崇峻天皇陵(桜井市)方墳、円墳?真陵は?暗殺された天皇
33代(592-628) 推古天皇(すいこ) 女帝 推古天皇陵(太子町〇)方墳 検討の余地?
34代(629-641)  舒明天皇(じょめい) 舒明天皇陵(桜井市〇)方墳 考古学的?
35代(642-645)  皇極天皇(こうぎょく)女帝(重祚して斉明天皇)
36代(645-654)  考徳天皇(こうとく) 孝徳天皇陵(太子町)円墳 考古学的?
37代(655-661) 斉明天皇(さいめい)女帝  斉明天皇陵(高取町)円墳、八角?眞陵は?
38代(661-671)  天智天皇(てんじ) 天智天皇陵(京都市◎)方墳   
39代(671-672)  弘文天皇(こうぶん) 弘文天皇陵(大津市)円墳 考古学的??
40代(672-686)  天武天皇(てんむ)  天武天皇陵(明日香村◎)八角
41代(686-697) 持統天皇(じとう)女帝  持統天皇陵(天武天皇と合葬)
42代(697-707)  文武天皇(もんむ)  文武天皇陵(明日香村)円?真陵は?八角
43代(707-715)  元明天皇(げんめい)女帝
44代(715-724)  元正天皇(げんしょう)女帝
45代(724-749)  聖武天皇(しょうむ)
46代(749-758)  考謙天皇(こうけん)女帝(重祚して称徳天皇)
47代(758-764)  淳仁天皇(じゅんにん)
48代(764-770)  称徳天皇(しょうとく)女帝
49代(770-781)  光仁天皇(こうにん)
50代(781-806)  桓武天皇(かんむ)
51代(806-809)  平城天皇(へいぜい) 平城天皇陵(奈良市)
52代(809-823)  嵯峨天皇(さが)
53代(823-833)  淳和天皇(じゅんな)
54代(833-850)  仁明天皇(にんみょう)
55代(850-858)  文徳天皇(もんとく)
56代(858-876)  清和天皇(せいわ)
57代(876-884)  陽成天皇(ようぜい)
58代(884-887)  光考天皇(こうこう)
59代(887-897)  宇多天皇(うだ)
60代(897-930)  醍醐天皇(だいご)
61代(930-946)  朱雀天皇(すざく)
62代(946-967)  村上天皇(むらかみ)
63代(967-969)  冷泉天皇(れいぜい) 
64代(969-984)  円融天皇(えんゆう)
65代(984-986)  花山天皇(かざん)
66代(986-1011)  一条天皇(いちじょう)
67代(1011-1016)  三条天皇(さんじょう)
68代(1016-1036)  後一条天皇(ごいちじょう)
69代(1036-1045)  後朱雀天皇(ごすざく)
70代(1045-1068)  後冷泉天皇(ごれいぜい)
71代(1068-1072)  後三条天皇(ごさんじょう)
72代(1072-1086)  白河天皇(しらかわ)
73代(1086-1107)  堀河天皇(ほりかわ)
74代(1107-1123)  鳥羽天皇(とば)
75代(1123-1141)  崇徳天皇(すとく)
76代(1141-1155)  近衛天皇(このえ)
77代(1155-1158)  後白河天皇(ごしらかわ)
78代(1158-1165)  二条天皇(にじょう)
79代(1165-1168)  六条天皇(ろくじょう)
80代(1168-1180)  高倉天皇(たかくら)
81代(1180-1185)  安徳天皇(あんとく)     
82代(1183-1198)  後鳥羽天皇(ごとば)
83代(1198-1210)  土御門天皇(つちみかど)
84代(1210-1221) 順徳天皇(じゅんとく)
85代(1221-1221)  仲恭天皇(ちゅうきょう)
86代(1221-1242)  後堀河天皇(ごほりかわ)
87代(1232-1242)  四条天皇(しじょう)
88代(1242-1246)  後嵯峨天皇(ごさが)
89代(1246-1259)  後深草天皇(ごふかくさ)
90代(1246-1274)  亀山天皇 (かめやま)
91代(1274-1287)  後宇多天皇(ごうだ)
92代(1287-1298)  伏見天皇 (ふしみ)
93代(1298-1301)  後伏見天皇(ごふしみ)
94代(1301-1308)  後二条天皇(ごにじょう)
95代(1308-1318)  花園天皇 (はなぞの)
96代(1318-1339)  後醍醐天皇(ごだいご)
97代(1339-1368)  後村上天皇(ごむらかみ)
98代(1368-1383)  長慶天皇 (ちょうけい)
99代(1383-1392)  後亀山天皇(ごかめやま)
100代(1382-1412) 後小松天皇(ごこまつ)
101代(1412-1428) 称光天皇(しょうこう)
102代(1428-1464) 後花園天皇(ごはなぞの)
103代(1464-1500) 後土御門天皇(ごつちみかど)
104代(1500-1526) 後柏原天皇(ごかしわばら)
105代(1526-1557) 後奈良天皇(ごなら)
106代(1557-1586) 正親町天皇(おおぎまち)  
107代(1586-1611) 後陽成天皇(ごようぜい)
108代(1611-1629) 後水尾天皇(ごみずのお)
109代(1629-1643) 明正天皇(めいしょう)女帝
110代(1643-1654) 後光明天皇(ごこうみょう
111代(1654-1663) 後西天皇(ごさい)
112代(1663-1687) 霊元天皇(れいげん)
113代(1687-1709) 東山天皇(ひがしやま)
114代(1709-1735) 中御門天皇(なかみかど)
115代(1735-1747) 桜町天皇(さくらまち)
117代(1762-1770) 後桜町天皇(ごさくらまち) 女帝
118代(1770-1779) 後桃園天皇(ごももぞの)
119代(1779-1817) 光格天皇(こうかく)
120代(1817-1846) 仁考天皇(にんこう
121代(1846-1866) 孝明天皇(こうめい)
122代(1867-1912) 明治天皇(めいじ)
123代(1912-1926) 大正天皇(たいしょう)
124代(1926-1989) 昭和天皇(しょうわ)
125代(1989- )  今上陛下  
※ 
1 考古学的、学術的に多くの学者の意見が一致しているのは赤字の6カ所ぐらいですね。
2 歴史上、女帝は赤字の10代8人です。

 見にくい資料を最後までお読みくださり、ありがとうございました。

 恥ずかしながら、翔年はこの歳になって初めて、歴代天皇の名前を読み方までしっかり確認して書きました。

皇室は必要か

 次回は「日本国憲法」について考えたいと思います。特に皇室に関する第一条〜第八条です。アップできるのは10日ぐらい先になると思います。







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May 24, 2013

正しい歴史認識ってなに? -あるはずのないものをあるように言う人達-

E・H・カー著「歴史とは何か」
歴史とは何か
 ドイツの鉄血宰相ビスマルクが言ったといわれている言葉に
「賢者は歴史に学び愚者は経験から学ぶ」
と言うのがある。(調べたところ、実際はこのようにはいっていないらしいです)

 この句について塩野七生さんはもっと過激に
「賢者は、歴史からも経験からも学ぶことができる人で、愚者は、歴史からも経験からも学ぶことができない人」
と言い換えるべきであるとおっしゃっている。

 このような箴言をじっくり味わっていると、中国や韓国の政治家達がわが国の政治家に向かって「正しい歴史認識に立て」とか「歴史認識が間違っている」とか声高に叫んで非難することが多いのですが、わが国の政治家はむにゃむにゃ言いはしていますが、もう一つシッカリした反論をしているようには見えないので、翔年は残念でなりません。

 非難されているわが国の政治家はすかさず相手にこう質問して欲しいと思う。
「正しい歴史認識とは何ですか?」
「歴史に正しい認識(解釈)と間違った認識があるとしたら、正しい歴史認識は誰が決めているのですか?」
「あなたは完全な歴史書をお持ちなのですか?」


 もし、この質問に答えたとしても、中国の政治家の答えも韓国の政治家のそれも、碌なものではないと想像できる。なぜなら、完全な歴史書なんてどこにもないし、歴史事実を前にして、正しいとか間違っているとか、そう簡単にいえる道理がないのですから。


 翔年は「事実は神聖であり、意見はかってである」という偉大なジャーナリストC・P・スコットの言葉を信じています。いかなる歴史家も「歴史的事実を選択的にとりあげて、それに知的解釈を与えたに過ぎない」のですから、日本の歴史家も政治家も彼らにもう少しシャンとした態度で対峙して欲しいとおもっています。
 

 上の問答を十分楽しんだ後で、今度は歴史ではなく、
二国間の領土の紛争について、平和的に解決する国際的に正しい方法論をお持ちか?」と聞いてほしいと思う。


参考書籍:E・H・カー著「歴史とは何か」



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January 07, 2013

ゴロウニンの日本観察 -1811年から3年間、函館で幽閉されたロシアの艦長-

  昨年の9月29日のエントリーで「国家の品格、国民の品位 -中国の尖閣諸島に対する発言と態度-」を書いた。その後段に、ロシア人のゴロウニンとピヨートル・リコルド、日本人の高田屋嘉兵衛の3人にまつわる、品格ある人達のちょっといい話を書いた。

 このエントリーはその続きというほどのものではありませんが、ゴロウニンが函館に3年間幽閉されていた時の「ニッポン幽囚記(艦長ゴロウニンの手記)」についてです。幽閉とはいえ、日本人と直接に接触してゴロウニンは日本人やニッポン語をどう理解していたかが分る興味深い記述ですので、長くなりますがご紹介します。

 「日本政府としては、国民が自国の文明だけで満足し、自国民の頭で発明したものばかりを使用することを求め、他国民の考案を採りいれることを禁止して、外国の学問、芸術とともに異国の風俗が入りこんで来ないようにしている。(中略)
 もしこの人口多く、聡明犀利で模倣力があり、忍耐強く仕事好きで、何でもできる国民の上に、わが国のピヨートル大帝ほどの王者が君臨したならば、日本の胎内にかくされている余力と富源をもって、その王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家たらしめるだろう。(中略)
 たとえば隣国人の襲撃が頻繁にくり返されると、むろん日本人は少数の闖入者のため多数の国民が不安に陥るのを防ぐ方法を講ずるであろう。それが洋式の手本に従って軍艦を建造するきっかとなり、それらの軍艦が集まって海軍となり、やがては恐らくこの方策の成功によって人類の絶滅に役立つ他のヨーロッパ式の文明的方法をも採用することとなり、遂にはわが国のピヨートルほどの天才がいなくても、情勢のおもむくところ、あらゆるヨーロッパの発明が日本で使用されるに到るでであろう。(中略)
 したがってこの正当で正直な国民をからかう様なことはしてはならぬ、と私は思う。」


 ゴロウニンは3年間の幽閉中に、日本の未来を見通したようなことを書いているのに感心しました。明治維新後のわが国はこの予言とおりになったのではなかったでしょうか?

【1000円以上送料無料】西洋人の日本語発見 外国人の日本語研究史/杉本つとむ
【1000円以上送料無料】西洋人の日本語発見 外国人の日本語研究史/杉本つとむ

 杉本つとむ著「西洋人の日本語発見 -外国人の日本語研究史」を渉猟していて、上の箇所にぶちあたって驚きました。
 またゴロウニンは日本語についてこんなことも言っています。

日本側ではわれわれが日本文字の書き方を勉強することを禁じたので、日本の文法を学ぶ方法はなかったが、日本人から聞いたところでは文法はさまで難しくはない様子であった。と言うのは名詞も動詞も変化が極めて少ないからである。名詞の変化はそのあとに付ける助詞まだは小詞を使っておこなう。動詞の変化は性も数も法もなく、ただ時だけにすぎず、その時も日本語では過去、現在、未来の三つしかなく、あとはたとえば『前に、間もなく』などのように状況語を加えてあらわすのである。」

 
 当時の日本語研究はオランダ人だろうと思いこんでいましたが、どうやらロシア人も幽閉中、禁じられていたにも係わらず、学んでいたのではないかと疑われるほど日本語の特徴を正確に記述しているのに驚きました。

ゴロウニン、恐るべし!
ロシア人恐るべし!


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December 31, 2012

言葉遊び(2) -まつかれてたけたくひなきあしたかな???

三方が原の戦い  by wikipedia
三方が原の戦い

 時は戦国時代(1973年)、元亀3年12月22日〜元亀4年正月の間のできごとです。

 浜松の北方にある三方が原に魚燐の陣を布いて待ち構える武田信玄軍に対して徳川家康軍は鶴翼の陣形で挑みました。しかし、武田軍に兵力・戦術面とも劣った徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走しました。家康が大敗した戦いとして有名です。

 浜松城に逃げ帰った傷心の家康がシュンとして正月のまずい酒をのんでいるその時、武田方からこれみよがしのこんな句が届けられました。

 まつかれてたけたくひなきあしたかな

松(松平=徳川)枯れて、竹(武田)類なきあしたかな」、要するに、これからは武田の天下なんだぞと言う勝利宣言ですね。
 家康の消沈ぶりがあまりにひどいので、家来達はなぐさめようもありません。ところが一人知恵者がいました。この句を違う意味に読み替えて家康に披露して慰めたのです。
 
 さて、この句をどのように読んで家康を元気付けたのでしょうか? 
ヒント:濁点を上手くうち替えることをしてはどうでしょう。


松枯れで、武田首無きあしたかな」 (拍手)
 
 この素晴らしい機転に、居並ぶ武将達は生気をとりもどしたのはいうまでもありません。結局、この三方が原の敗戦が家康の生涯唯一のものになったことは歴史の教えるところです。


蛇足:
1 合戦の合間に、これだけ優雅な遊びができるとは、日本人の美点でしょうかね。(作り話としても)
2 相撲では勝者がガッツポーズすることは敗者への礼を失するとして禁じられています。さらに、明らかに勝敗が決してから、相手を突き飛ばしたりすることも非礼とされてます。朝青龍はしばしばこれをやって最後は変な形で相撲界を去りました。
3 日中の政治問題などを、新聞はもっと知恵のある言葉をつかって論評をして欲しいです。例えば、中国政府が読めば喜ぶこと間違いなし、ただし、日本人が読めば逆の意味にとれるような漢詩を作って揶揄するようなことができる知恵者はいませんか? 


参考資料:清水哲男著「増殖する俳句歳時記」


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May 07, 2012

アレキサンダー大王とシーザーが泣いた?話

アレキサンダー大王1
 Fiona Beddall の "Alexander the Great"に、彼が世界には星の数ほどたくさんの国々があると知った時に泣いたと書いてあった。その涙の訳は「俺はまだその一つすら征服していないんだ」ということだった。
 アレキサンダー大王は紀元前336年、20歳でマケドニアの王となった。そしてまたたく間に世界がかつて見たこともない大帝国の支配者となった。彼の帝国はギリシャから東はインドにまで及んだという。
 しかし、彼は大帝国を作りはしたが治める楽しみを味わうことなく、多くの仕事を残して30歳でこの世を去った。

 三世紀後、ローマにいたジュリアス・シーザーは、アレキサンダー大王の偉業を知って涙した。何故なら、大王は帝国を支配していたのに、32歳になっていたシーザーはまだ何の業績も上げていなかったのだから。

 「講釈師見てきたような嘘をいい」という川柳が揶揄するとおり、歴史家は本当に彼らの涙を見たわけではないだろう。でも読者は征服欲の強いアレキサンダー大王なら、「ようし 、今に俺はでっかいことやるぞ!」叫んだだろうと思うし、シーザーは世に出るのが遅かったから、本当に悔しい思いをしただろうと想像する。だから「泣いた」は嘘も方便として許されるものらしい。


アレキサンダー大王
 閑話休題。たったこれだけの話ではここの読者は満足してくれない。もうちょっと踏み込んで書きます。


 マケドニアのアレキサンダー大王は帝国をどんどん拡張したので、あらゆる文化が融合し、アフロディテ像やアテナ、ニケなどの女神像がギリシャからオリエント地方にまでまたがって盛んに造られた。作られた時期や場所はまちまちであるけれど、そのために興味深い二つの違いがあるのを読者はご存知? 翔年は知りませんでした、と言うか、完全に忘れていたことを知りました。

 一つは時代による女性の衣の変遷です。それは時代の経過とともに、女神や女性像の衣がずり落ちるのです。(笑)
前六世紀   : いずれも全身に衣をまとっている。
前五世紀後半 : 片肌を脱いでいる。当時は自由の空気があったようで、この片方の乳房露出は一世を風靡したらしい。
前二世紀中頃以降 : ついにアフロディテが全裸になりました。


もろ肌脱いだアフロディテ(前二世紀中頃)とサンダルを脱ぐアフロディテ(前100年頃)
アフロディテ前二世紀サンダルを脱ぐアフロディテ
 古典期の女神の注文は神殿からだった。それが前二世紀頃には当時の享楽的な風潮も手伝って、領主や金持ちから裸身像の注文がドンドンくるようになったらしい。もう脱ぐものがなくなったアフロディテがサンダルを脱いでいる像はもう神殿には飾れませんね。


 もう一つはもうちょっと隠微な考察です。先ほどは時代とともに、全身着衣→片肌脱ぎ→もろ肌脱ぎ→全裸という変遷を見ました。次も女性像であることは変わらないのですが、今度の問題は地域によってはっきり差異のある下半身の表現形式です。そういう話でも別に気にならないという方は、もう少し奥の部屋へとお進み下さい。


  それはヘアの有り、無しです。ギリシャの全裸女神像は陰毛が表現されていないのに対し、オリエントでは濃い陰毛を有する姿で表現されているのです。
 ギリシャ人の方がエロチックなんだろうと早合点してはなりません。また好みの問題でもありません。ようく落ち着いてお聞き願います。古代ギリシャでは女性の陰毛を剃る習慣があったということが関係しているらしい。嘘と思うお方はアテネ考古博物館、ルーブル美術館、大英博物館をめぐって、それようの剃刀が陳列されているのをお確かめ下さい。
 一方オリエントの方はどうだったか。古代の女神は地母神、大地の生産力と女性の出産力とを結びつけて崇めるという農耕社会でした。地母神像は生命の創造者、豊穣のシンボルとして、豊満な乳房、発達した骨盤、濃い陰毛を有する姿であらねばならなかったのでした。

 ここは画像がなくても、ガッテンしていただいけたでしょうか? (ガッテン)、(ガッテン)、(ガッテン)


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October 27, 2011

南イタリヤの旅 −ポンペイ遺跡他

 南イタリアの旅(11日〜20日)をしてきた。旅程は10日間でした。

一日目 関空からイスタンブールへ(13時間)
二日目 イスタンブールから南イタリヤの玄関口ナポリへ(2時間半)、ポンペイ遺跡(世界遺産)、ナポリ歴史地区(世界遺産)
三日目 カプリ島、青の洞窟
四日目 アルベロベッロのトゥルリ地区(世界遺産)、マテーラの洞窟住居(世界遺産)
五日目 アマルフィー海岸(世界遺産)、エメラルドの洞窟
六日目 カゼルタ王宮(世界遺産)
七日目 ローマ歴史地区(世界遺産)スペイン広場、トレビの泉、コロッセオ、
バチカン市国(世界遺産)ヴァチカン博物館、システィーナ礼拝堂、サンピエトロ寺院
八日目 サンタンジェロ、フォロ・ロマーナ、パンテオン
九日目 パラティーノ博物館、 ローマからイスタンブールへ(2時間半)
10日目 イスタンブールから関空へ(11時間)  
 どこもかしこも興味深かったけれど、何と行ってもポンペイの遺跡が一番興味をそそられました

ポンペイの街(1900年前)の大通り     photo by iPhone
ポンペイの遺跡
 港町として栄えていたポンペイの街は、紀元79年、ヴェスヴィオス山の突然噴火で一瞬のうちに灰の下に埋もれてしまったのでした。三日間で4メートルの灰の下に埋まってそのまま1900年間、地下に眠っていたのですが、18世紀になってナポリ王が発掘して古代の街が遺跡として蘇ったのです。それも街全体の構造のみならず、円形劇場、アポロン神殿、野外劇場、音楽堂、公衆浴場、大邸宅、娼館までがその姿をとどめているのに眼を見張りました。1900年前の街を歩いた時、この街を造り住んでいた人々の技術力の高さが偲ばれて、思わずメモに留めたのが以下の項目です。

1 ティレニア海に開けた街は碁盤の目に造られている。
2 道路は車道と歩道に分けられている。車道には馬車の轍の跡が敷石が磨り減ってハッキリ残っている。
3 碁盤目なので、交差点があり、横断報道が設けられている。
4 広場には車が入れないように「車止め」が設けられている。(中は歩行者天国)
5 歩道に水道管(鉛管)が埋設されている。(歩道に埋設されているのをこの目で確かめました)
 車は馬車だったと思われますが、街としての構造は現代とそう変わらないのに驚きましたね。

ポンペイの娼館
 それに、この街には娼館が25もあったのです。繁栄していた港町なので、大儲けをした商人達の需要があったのでしょうね。もう少し掘り下げて読者のために調べてきましたよ。
 まず、娼館は馬車一台が通れる狭い裏通りにあります。そしてそのありかを外国の商人達に報せるために、大路の敷石に目印が設けられていたのです。
 その目印とは? 歩道の敷石に男性器の絵が彫ってあり、それが娼館のある方向を指示していた(笑)のです。金をしこたま儲けたそのころの商人になったつもりで考えてください。次に必要なのはどんなサービスが受けられるかではないでしょうか。それもポンペイは抜かりはありません。チャント壁面に写真に示すようなエロチックな絵がズラッーと並んでいたので、あなたはその絵を指差すだけでOKだったのです。あなたが金持ちなら二階の大きな部屋に案内されるでしょうし、そうでなければ窓もない小さな部屋に案内されるはずです。ハイ。ここから先はご想像にお任せいたしましょう。


 イタリヤにも少し慣れた頃、レストランで食事をしながら流しのカンツォーネ(4名)を聴いた時には、みんなリラックスして一緒に歌うやら踊るやら、梅田新地のどこかの夜と何ら変わらない夜が更けていきました。


ローマの松
ローマの松
 ローマの松は何故かどれもこれも写真のような姿をしていました。天女が羽衣をかけたくなるような枝がないのです。公園などでは上空を松の枝が覆ってまるで天幕を張ったようでした。

 最後にレスピーギの交響詩「ローマの松」で映像(50秒で変ります)とともに音で古代のローマのイメージをお楽しみください。彼はこの曲で単に松のことを描こうとした訳ではなくて、松という自然を通して古代ローマへ眼を向け、ローマの往時の幻影に迫ろうと意図したそうです。
ではクリックしてyoutubeで どうぞ!   http://youtu.be/XemYkEZ0IX8


追記
イタリアのインターネット事情
ナポリ、アルベロベッロ、ソレント、ローマのホテルは全てWiFiで接続可。ただし、
部屋によっては電波が弱く、ロビーホールのみ接続可、また、アルベロベッロのホテルは有料(1ユーロ/2時間)
街の広場、駅などの公共施設もネットのインフラは貧弱なようで、無料のWiFiはキャッチできませんでした。

追記2(11/3)
今日朝のTVで、佐渡裕の「題名のない音楽会」で、レスピーギの「ローマの松」が放映されました。また、Eテレでは10月はマキャベリの「君主論」が4回に分けて放映されました。今まで見逃していたものが目に止まるようになったのは今回の旅行の影響です。

  
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June 15, 2010

映画「カティンの森」を観た

カティンの森001
 先日、ちょっと時間の空白が生じた時、以前から見たいと思っていたアンジェイ・ワイダ監督の映画「カティンの森」を観た。多くのことを考えさせてくれる素晴らしい映画だった。
 ポーランド現代史のある悲惨な事件を描いた映画ではあるが、政治や歴史の専門家でなくても見て考えることができるように、否応なく戦争に巻き込まれた妻や母の視点から事件が語られるので、誰でも理解できるいい作品だと思った。

 映画を語る前に「カティンの森」事件の事実を年表にして確認おきたい。あまりにも悲惨な根が深い事件であることを再認識するために、またこの映画を十分理解するために。

1939年9月(第二次世界大戦勃発)
  独ソによるポーランド分割占領。古都クラクフはドイツが占領。ソ連の捕虜となったポーランド兵は138箇所の監獄と強制収用所に抑留される。
→ 前年の11月にソ連はポーランドと不可侵条約の更新をしたばかりであった。

1940年4月
  ソ連内務人民委員部(NKVD、後のKGB)がポーランド将校一万数千人を虐殺
→ このことは驚くべきことに、長い年月隠されていた。

1941年6月〜7月
  ドイツが不可侵条約を破ってソ連に侵攻。ソ連に抑留中のポーランド軍捕虜に大赦。
→ 1939年8月、独ソ不可侵条約を締結しているにもかかわらず。
ヒトラーのドイツ、スターリンのソ連、どちらも独裁国家で、なんでもあり。

1941年8月
  ポーランド軍のアンデルス将軍が行方不明の一万数千人の将校に不審を抱きソ連に問い合わせるも説明がなかった。翌年、ソ連を去り米英軍に合流した。

1941年秋
  独ソ戦線が東に移動し、カティンはドイツに占領される。

1943年4月
  ドイツが虐殺された将校の遺体がカティンに埋められているのを発見。
  国際委員会による調査により、40年春にソ連が虐殺したと結論。記録映画撮影。

1943年6月
  独ソ戦線が西に移動し、ドイツは墓の調査を中断。遺体とともに発見された遺品は証拠物件である。証拠隠滅を狙うソ連と真相解明を志すポーランド抵抗組織の間で「遺品をめぐる闘争」が展開した。

1943年9月 
  カティンは9月25日にソ連により開放される。ソ連側調査委員会による調査が始まる。

1944年1月
  ソ連調査委の報告書発表。これによれば41年秋にドイツが虐殺した。彼らは43年の調査の際、一切の記録文書を取り除いて、再び死体を墓に戻したと結論付けている。ソ連も記録映画をを撮影している。
→ このでっち上げ映画のために、新に1000名の捕虜を殺害してフィルムに収めたという。独裁国の恐ろしさを痛感する。

1944年8-9月  ワルシャワ蜂起。

1945年1月18日 
  古都クラクフ、ソ連により開放される。それ以前にカティン犠牲者の遺品がソ連軍の手に渡らないよう、ドイツへ運ばれるが、最終的にドレスデン近郊で失われてしまう。これは謎のまま。

1945年5月8日  ドイツ無条件降伏

1945年(第二次世界大戦終結)
  ポーランドはソ連の衛星国(ポーランド人民共和国)となり、カティンの「真実」追究がタブーになる。
→ ドイツとソ連の強国に挟まれたポーランドは自国将校の最期の真実を知ることは出来なかった。

1946年
  ニュールンベルク裁判でもカティン問題への責任追及はなされなかった。

1976年
  ロンドンにカティン記念碑が建てられ「1940」(即ち犯人はソ連)と記される。
→ 事件が発生してから40年近い歳月を経て、やっと真実の扉が開かれ始めた。

1981年
  「連帯」革命のさなか、ワルシャワにポーランド最初のカティン記念碑が建てられるが、その夜のうちに何者かがクレーンを用いて撤去。
→ 共産主義者のしわざに違いないと思う。

1983年
  ソ連がカティンの森に建てた記念碑には「カティンの地に眠る、ヒトラーのファシズムの犠牲者・ポーランド兵のために」と記される。
→ この年、ソ連はまだこういうことをやっている。独裁国家とはこういうものであろう。

1986年
  カトリック団体がカティンに木製の十字架を建てたが、虐殺の日付を刻むことは許されなかった。
→ ポーランド人にとって、本当の歴史をかたることはまだ許されなかった。

1990年
  ポーランドはソ連の衛星国でなく、ポーランド共和国となる。ゴルバチョフソ連大統領が自国の犯行と認めポーランドに謝罪。
→ 50年の歳月の後に、やっと歴史の真実が明らかになった。


1991年
  ピャチハトキとメドノエの発掘調査が行われる。

    
アンジェイ・ワイダ監督のメッセージの一節。
「長い年月が、カティンの悲劇からも、1943年のドイツによる発掘作業からも、われわれを隔てている。90年代におけるポーランド側の調査探求にも拘わらず、さらには部分的にとどまるとは言え、ソ連関係文書の公開が行われた後でさえも、カティン犯罪の実相について我々の知る所はあまりに少ない。(中略)
 映画は、カティン事件の数多い被害者家族の苦難と悲劇について物語ればよい。スターリンの墓上に勝ち誇る嘘、カティンはナチス・ドイツの犯罪であるとの嘘、半世紀にわたり、対ヒトラー戦争におけるソヴィエト連邦の同盟諸国、すなわち西側連合国に黙認を強いてきたその嘘について語ればよい。(以下略)」
→ ワイダ監督については年配の人なら名前を覚えておられるだろう。1957年「地下水道」や1959年「灰とダイヤモンド」などの名作がある。
1987年に京都賞を受賞、その受賞賞金を基金として、1994年、クラクフに日本美術技術センターを設立した。

著者(アンジェイ・フラチク)から日本読者へのメッセージ。
私はこれまで抱いてきた信念を物語りにしました。
死者たちを正当に弔意しなければならない。過去との直面を避ける民族は敗北を宣告されている」という信念です。戦争の悲惨さを体験した日本人なら、これを理解してくれるでしょう。
→ わが国は国民自らの意志によって戦争責任を明らかにしていない。天皇制擁護論が責任追及をいまだに阻んでいる。


二大強国に挟まれたポーランド(拡大してご覧下さい)
カティンの森002

 映画については翔年がこれ以上付け加えるべきことはない。ドイツとソ連という二つの強力な独裁国家に挟まれたポーランドが蒙った受難。それは米国と中国に挟まれて困難な歩みを強いられる今後の日本を暗示しているかも知れません。
  
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October 23, 2009

「人生のセームスケール」の出版延期

 玉川和正氏(建築家)が手塩にかけてWeb上で育てられているすばらしいコンセプトの「人生のセームスケール」が、書籍化されて来年一月に出版される予定でした。が、出版社の事情で半年以上の延期となりました。
 延期の事情はわかりませんが、日頃「人セム」を応援している者として残念でなりません。出版界全体の衰退化のあおりを受けた出版延期でなかったらいいのですが……。


 翔年は「人生のセームスケール」(略して「人セム」)のお手伝いをしているので、紹介記事を何回も書いています。関心ある方は是非「人生のセームスケール」を見ていただきたい。もし、時間がおありの時に、このBBSを覗いていただければ楽しいと思います。玉川氏(たまさん)がほぼ毎日皆様にお目にかかります。

2005/11/27「人生のセームスケール −2000人を突破」
2007/05/24 「偉業達成が近い −人生のセームスケール」
2009/06/30「「人生のセームスケール」が本に…」


 ところで、出版とかCDなどで、絶版になってしまったものを、ファンや愛好家が希望者をリストアップし、ある数になったら版元にリクエストして再出版するシステムがあります。
 「人セム」のような今までこの世に存在しなかった様式の本を世に出すためには、人セム支持者が出版されたら何冊買うという予約を入れるのがいいような気がします。
 翔年は20〜30冊は買って、この種の資料本に興味を持つ友人にプレゼントしたいと思っていたけれど、もっと積極的にみなさんから買っていただく部数を積み上げて、出版社に届けるぐらいのことをしなければならないのかな? と思い直したり、もっとよい方法はないのかな? と思案したりして、なんとか出版に持ち込む妙案はないものかと思案中です。


 「人生のセームスケール」に賛同していただいた読者にお願い! 
1 出版にこぎつけるアイデアがありましたら、教えてください。
2 出版されたら買ってみたいと思った方はお名前をそっと教えてください。



 
たまさんからの通知文です。BBS よりコピーっしました。
**************************************** 
(仮称)『人生のセイムスケール(普及版/ダイジェスト版)』が来年1月マガジンマガジン社から世に出る予定でしたが、出版社の事情により、半年ほど延期されることになりました。
残念ですが、企画が『おシャカ」に成ったわけではないのでご理解下さい。
成るようにしか成らないと思います。
  
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August 11, 2009

「人セム」書籍化!

 「人生のセイムスケール」(略して「人セム」)の普及版が来年一月に書籍になります。「人セム」というこの壮大な試みを始められた玉川和正氏(仲間は親しみを込めてたまさんと呼んでます)の作業を、翔年はささやかではありますがお手伝いしています。他にもたくさんの仲間がいて、それぞれが勝手に自分のできることをして、たまさんを支援しています。
 これが書籍化されて、世に受け入れられたら、たまさんをはじめ僕たち、たまさんの周りに集まっている中間はどんなにうれしいことか。
 
 下記はたまさんがご自分のBBSに書かれたお願い文です。読者のみなさんにも、翔年から書籍化の暁には、どうかこの本を買ってくださるよう、切にお願いします。もし、手元不如意で本が買えないけれど関心があるとおっしゃる方は翔年までご一報ください。翔年が「人セム」本を無料でプレゼントします。それでPRして下さったら、翔年は本望です。どうかよろしくお願いします。


たまさんのBBSより転載します。

(仮称)『人生のセイムスケール(普及版/ダイジェスト版)』が来年1月マガジンマガジン社から世に出る予定です。
皆さんの投稿やイラストも含めた理想とする年代別の分冊化は、普及版が5万冊以上売れたなら実現すると担当の園田さんと「男の約束」を交わしました。
友人や自分の誕生日、父の日や母の日のプレゼント、人生の転換期や人生のハローワーク、人名検索としても使えるような本になるはずです。
「人セム」する、あるいは「人セムる」を流行語大賞に!が大きな野望です。
5万部はかなり高いハードルと聞き及んでおります。どうか口コミ等、ご支援を下さいな。

空間のセイムスケール
空間のセイムスケール

(なじみのない方に、たまさんからちょっと説明してもらいましょう)
1 建築の世界では、新しい建物を計画する際、よく知られた古今東西の建物の平面図や立面図を同じサイズ、スケール(縮尺)で並べて空間の大きさや高さ、そしてコンセプトを比較するセイム スケールというプレゼンテーションの方法がある。
ボク(玉川和正氏のことです)も処女作「仙録苑」が竣工したとき、その処女作とサンピエトロ寺院やコルビジェのサヴォア邸など古今東西の名建築とのセイムスケールのドローイングを記念に作成しました(左図)。これから建築の世界で生きていくささやかな宣言でもあったかもしれません。25歳の時でした。

2 ならば時間のセイムスケールを作ってみようと考えた。人生のセイムスケールである。時、あたかも2001年7月9日。
 古今東西・老若男女の「存在と精神の系譜」を編年体でも、アイウエオ順でも、概念別でも、分野別でも、地域別でもなく、かといって恣意的な序列や順序、ランキング形式(ベストテンとか千夜千冊とか)でもない、この世に存在した生涯日数のみで再配置してみるというもの。それによって絶対的歴史年やジャンルの枠を飛び越えるのではないか。複雑な全人類史を単純な法則で再構築する。あらゆるヒエラルキーに抗する意味あるフラットな分類を目指して---。 

 

たまさんへ
 たまたま囲碁を通じて知り合ったアメリカ人やヨーロッパ人で、日本文化に造詣の深い人たちや人類の文化に対して造詣の深い人たちに、これからPRしようと思っています。
 「人セム」を世界遺産にするための第一歩が「普及版の書籍化」で、第二歩が「年代別人セム」ですね。
 英語バージョンのネット化を第三歩にしたいと思います。賛同者が現れるように頑張ります!
       − NYにて(現地時間㏪午前0時)−

  
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July 27, 2009

深坂古道を歩く

 去る25日、梅雨空の下、深坂古道を歩いた。深坂古道とは敦賀と琵琶湖を結ぶ最短経路の古代の道で、塩の道でもあるし、紫式部が先年の昔に歩いたといわれる街道でもある。標高370mの峠を越える道で、現代では、東側の国道8号線と西側の国道161号線に交通の役目を譲っている。(明治11年頃に廃道となった)深坂古道に興味のある方はここをご覧下さい。

深坂古道

 紫式部は父の藤原為時が越前に赴任した時、この峠道を父と越えた。その時にこんな歌を詠んでいる。

塩津山といふ道のいとしげきを賎の男のあやしきさまどもして「なおからき道なりや」といふを聴きて
知りぬらむ 往来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと   紫式部

(意訳)お前たちは行き来して慣れた塩津山なのにこんなにも大変です。これでよくわかったでしょう。世の中というのはこの道のように厳しいものなのですよ。
→ この歌を読んだ時、紫式部は20歳前後だった。取りようによってはちょっと高慢ちきで嫌味に聞こえますナ。 

万葉集に、この塩津山を読んだ笠朝臣金村の歌が二首ありました。
ますらおの弓上(ユズエ)振り越し射つる矢を後見る人は語り継ぐがね  万葉集巻三364
※ 峠を越える時に、矢を射る儀式のようなことをした。その矢が高い木に刺さったのを見て詠んだらしい。

鹽津山 打ち越え行けば 我が乗れる馬ぞつまづく 家恋ふらしも   万葉集巻三365
※ 当時、旅に出ていて道中色んなことが起ると、それは恋人や妻が自分を想っていてくれるからと考えるのが一般的だったらしい。鹽津(シオツ)峠は険しかったのでアクシデントはいろいろあったことだろう。

 古道は峠道だし、古歌の取り合わせも良かったけれど、翔年はもっと興味をもったことがありました。それは平清盛が息子の重盛に命じて深坂峠を開削して、近江の塩津と敦賀を連結する運河計画をしていたことです。残念なことに、この工事は途中で挫折するのですが、ともかく、こういうスケールの大きな土木工事を平清盛が構想したことに大変感銘をうけました。ドラマなどでは平安貴族の華美なところ、軟弱なところが強調されて描かれることが多いけれど、この地に運河構想を持った清盛が俄かにスケールの大きな人物に思えてきました。調べてみる価値は十分にあると思いました。

 おまけ:この地方を読み込んだなつかしい鉄道唱歌をどうぞ。

66番
敦賀はげにもよき港
おりて見てこん名どころを
気比の松原気比の海
官幣大社気比の宮

 68番
疋田、柳瀬、中之郷
すぎゆく窓に仰ぎ見る
山は近江の賤が嶽
七本槍の名も高し


  
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June 30, 2009

「人生のセームスケール」が本に…

 翔年は縁あって「人生のセームスケール」(以下「人セム」)のお手伝いをしている。「人セム」とは建築家の玉川和正氏(仲間は親しみを込めて「たまさん」と呼ぶ)が素晴らしいコンセプトのもとに作られたデータベースである。それが来年1月頃、本(普及版)になります。

 そのコンセプトは『古今東西・老若男女の「存在と精神の系譜」を編年体でも、アイウエオ順でも、概念別でも、分野別でも、地域別でもなく、かといって恣意的な序列や順序、ランキング形式(ベストテンとか千夜千冊とか)でもない、この世に存在した生涯日数のみで再配置してみるというもの。それによって絶対的歴史年やジャンルの枠を飛び越えるのではないか。複雑な全人類史を単純な法則で再構築する。あらゆるヒエラルキーに抗する意味あるフラットな分類を目指して---。』という難しそうに見えてその実大変シンプルなデーターベースです。採用人物が増えれば増えるほど、このデーターベースの価値は幾何級数的に高まる所がミソです。

 このデータベースに収められた人物が昨日(6/29日)現在で3,724人になっており、これからも、ほぼ毎日、1名ずつ増えていきます。読者の皆さんも是非一度、このデーターベースを見ていただきたいです。

 ご自分の年齢と同じ年で、人生を終えた人たちの経歴を見るのもなかなか趣が深いし、人名検索で好きな歴史上の人物の人生をたどるのも興味が尽きないでしょう。思わぬ故人に出会うこともあるでしょうし、ある人物が歴史の時間の中で発した「言葉」に感銘をうけることもあると思います。

 楽しみ方はまだあります。「人セム」に載っていない人物をこの ”bbs”でお願いすれば、玉さんが人物史をまとめて「人セム」に載せてくださるから愉快です。翔年はたくさんお願いして、相当数の採用をしていただきました。データベースが日に日に成長していくのを見るのは大きな喜びとなります。

 その他の楽しみ方としては、「人セム」に採用されている世界中の古今の人物について、臨終に際して発せられた言葉とか辞世とか、墓のある場所なども "bbs" に投稿すれば、投稿者名とともに「人セム」に載せてもらえるので、自分の名前がデーターベースに永遠に刻まれます。また、人物の肖像画をネットで探してきて "bbs"に書き込むとか、生年月日の分からない人物のデータを見つけてきて"bbs"に書き込めば、玉さんがチャンと対応してくださり、データーベースがますます充実していきます。このような地味な縁の下の力持ち的活動を続けてくれる仲間も大勢います。また、絵心のある人は故人の肖像を描いて投稿することもできます。

 翔年は毎朝この"bbs"を見るのが日課になっています。今日は誰が採用されるのかと想像するだけで楽しく、自然に"bbs"を覗いてしまいます。
 このネット上のデーターベース、「人生のセームスケール」はいずれ「人類の文化遺産」となるはずです。


 出版される予定の本の主旨については、たまさんのBBSより引用します。
(仮称)『人生のセイムスケール(普及版/ダイジェスト版)』が来年1月マガジンマガジン社から世に出ます。皆さんの投稿やイラストも含めた理想とする年代別の分冊化は、普及版が5万冊以上売れたなら実現すると担当の園田さんと「男の約束」を交わしました。
友人や自分の誕生日、父の日や母の日のプレゼント、人生の転換期や人生のハローワーク、人名検索としても使えるような本になるはずです。
「人セム」する、あるいは「人セムる」を流行語大賞に!が大きな野望です。どうか口コミ等、ご支援を下さいな。


 読書離れが進行中の今時、5万冊を売るのは大変です。ぜひ、読者のみなさんのご協力をお願いします。
 この本についての新たな情報は、適宜みなさんにお伝えいたします。
  
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June 12, 2009

淡路島へ行った −国生みの神話など

 昨日、バスで明石海峡大橋を渡って淡路島に行った。バス中で自称19歳のガイドさん(聞けばガイド歴30年)がイザナギ、イザナミの二神の「国生み神話」の一部を説明してくれた。

淡路島明石海峡大橋


右からI氏、Kさん、翔年
百段園にて

 『天上の「天の浮橋」に立って、「天の沼矛(アメノヌボコ)」をもって青海原をかきまわし、その矛を引き上げたときに、矛の先から滴り落ちる潮が凝り固まって一つの島となりました。これが「淤能碁呂島(オノコロジマ)」で、次にできたのが淡路島である』と。

 なかなか示唆にとんだ大人のお話ではある。説明は間違ってはいない。けれど十分ではなかった。未成年(19歳?)では無理もない。「国生み神話」で誰もが興味を抱くところはここではないのかな?


 古事記によれば、淤能碁呂島に降り立ったって、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)の男女二神は、こんな会話を交わしたことになっている。大事なところなので、誤解をうんではいけない。現代語訳もつけておこう。



伊邪那岐(イザナギ):「汝(いまし)が身(み)はいかに成れる」
(あなたの体はどのようにできていますか)

伊邪那美(イザナミ):「わが身はなりなりて成り合はざる処一処あり」
(私の体には、成長して、成長していないところが1ヶ所あります)

伊邪那岐(イザナギ):「わが身はなりなりて成り余れる処一処あり。故(かれ)このわが身の成り余れる処を以て、汝が身の成り合はざる処を刺し塞ぎて、国土(くに)を生み成さんと以為(おも)ふ。生むこといかん。」
(私の体には、成長して、成長し過ぎたところが1ヶ所あります。そこで、この私の成長し過ぎたところで、あなたの成長していないところを刺して塞いで、国土を生みたいと思います。生むのはどうですか)


もう少し読みたいが、紙数がつきました。また機会があればまた……。
  
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May 28, 2009

昭和16年生まれ −わが世代− (昭和18年=2歳)

− 昭和18年=2歳 まだ、何も知らずに母の胸に抱かれて −


「昭和18年の出来事」
あなたも、この歴史の何処かで生きていましたね。

この年、日独伊経済協力協定
1月 朝日新聞、中野正剛の東条批判論文のため発禁
2月 日本軍ガダルカナルから撤退開始
3月 戦時行政特例・職権特例公布(罰則強化、首相独裁権強化)
   金属回収本部設置
4月 山本五十六司令長官ソロモン上空で戦死
  木炭のほか薪も配給制となる
アッツ島の日本守備隊2,638人玉砕
→ 振り返れば、国民はこの頃、情勢の暗転に気づくべきであった。情報は統制されていたとはいえ、自らの知性で判断した人はいたはず。物を言うべきであった。

   大東亜攻略指導大綱決定(マレー・蘭印は日本領土)
  学徒戦時動員体制確立要綱を決定
7月 国民歌唱運動展開
   翔年の弟生まれる
8月 日本、ビルマ同盟条約
9月 上野動物園で空襲の混乱に備え猛獣を薬殺
   イタリア無条件降伏
10月 学徒出陣壮行会
   東京の遊郭を工員宿舎に
   中野正剛自殺

「社会の動き」
・防空壕掘り、都市からの疎開を強調
・女子が国内産業、国防事業の担い手
・並木やゴルフ場は畑に、野草は「決戦料理」と呼ばれた
・「加藤隼戦闘機」の歌はやる(※歌詞後掲)
・ 敵性語禁止で「サンデー毎日」が「週刊毎日」、「エコノミスト」が「経済毎日」、「オール読み物」は「文藝読物」となる
・細雪(谷崎潤一郎)は軍部から「内容が戦時にそぐわない」として「中央公論」の掲載を止められる
・米英楽曲1000の演奏禁止



「加藤隼戦闘隊歌」

作詞:田中 林平・旭 六郎
作曲:原田 喜一・岡野 正幸
映画「加藤隼戦闘隊」主題歌、昭和十八年十二月、灰田勝彦唄

加藤建夫戦闘隊長(戦死数ヶ月前、 by wiqipedia)
加藤建夫戦隊長

一、
エンジンの音轟々と
隼は征(ゆ)く雲の果て
翼(よく)に輝く日の丸と
胸に描きし赤鷲の
印は我等が戦闘機

二、
寒風酷暑ものかわと
艱難辛苦打ち耐えて
整備に当たる強兵(つわもの)が
しっかりやって来てくれと
愛機に祈る親ごころ

三、
過ぎし幾多の空中戦
銃弾唸(うな)るその中で
必ず勝つとの信念と
死なば共にと団結の
心で握る操縦桿

四、
干戈(かんか)交ゆる幾星霜
七度(ななたび)重なる感状の
勲(いさお)の影に涙あり
ああ今は亡き武士(もののふ)の
笑って散ったその心

五、
世界に誇る荒鷲の
翼伸ばせし幾千里
輝く伝統受け継ぎて
新たに興す大亜細亜
我等は皇軍戦闘隊


次回は昭和19年(=3歳)です。生きているかぎり続けます。乞う、ご期待!

  
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May 06, 2009

昭和16年生まれ −わが世代− (昭和17年=1歳)

1942年(昭和17)1歳(生めよ増やせよの時代、健康優良児表彰があった)

 戦争は勝ち戦から負け戦の様相を呈しはじめましたが、わが世代はまだ1歳、何も知らずに、母の胸に抱かれて安心して眠っていました。


「昭和17年の出来事」
1月 ・日本軍マニラ、ラバウル占領 ・為替ドル基準廃止、円建てへ ・食塩の配給制
2月 ・シンガポール占領 ・食糧管理法公布
4月 ・米軍機16機が東京、名古屋、神戸を初空襲
5月 ・ミッドウエイ海戦(四空母を失う、戦局の転機?)
8月 ・米軍がガダルカナル島に上陸
   ・ドイツ軍、スターリングラード突入   
11月 ・優良多子家庭表彰 ・北原白秋没(1885-1942)
12月 ・ニューギニア島で8000人が玉砕

「社会の動き」
新聞統制により、一県一紙。
大本営は『皇軍は各地に転戦、連戦連勝』を強調。
欲しがりません勝つまでは』と精神主義に訴える。
敵性語廃止で日本ポリドールは大東亜に変更。
米映画禁止。

「後年、母から聞いた話」
 妊娠すると子どもに栄養をとられるので、歯がガタガタになった。これはカルシュームが十分摂取できてなかったからだろう。祖父は「小魚」を骨ごと食べよと母に勧めたという。カルシュームをとることが「栄養をとる」という意味だった。
 長じてから、翔年も「小魚をまるごと食べよ」とよく言われたのは、この「カルシューム信仰」があったからだろう。お陰で骨っぽい男に育った。



次回の「昭和16年生まれ −わが世代−」は「昭和18年の出来事」です。


  
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May 02, 2009

昭和16年生まれ −わが世代− (0歳)

 翔年は昭和16年4月生れである。自分の生まれ年を16年と覚えておくよりも、1941年と覚えておくほうが何かと便利である事を知っている世代である。物心がついたときは敗戦の混乱期にして、歴史的には20世紀のど真ん中だった。
 これから記録しようとするのは自分史ではなくて、自分達の世代史である。わが世代の目を通して、一年刻みで記録を積み重ねていく試みを始めたい。


「昭和16年の出来事」
1941年(昭和16)0歳(紀元二千六百一年、生めよ増やせよの時代に生をうけた)

この年の総理大臣は近衛文麿
1月 ・東条陸相「戦陣訓」を通達 ・中国国民党軍、共産四軍を攻撃 
4月 ・小学校を国民学校と改称 ・日・ソ中立条約締結
6月 ドイツ軍、対ソ攻撃開始
7月 米国、在米日本資産凍結 ・英国全領日本資産凍結
8月 日本軍、南部仏印進駐 ・大西洋憲章(英、米、ソ)
10月 総理大臣、東条英機
12/7 真珠湾攻撃 ・大東亜戦争(対米英)
12/8 開戦の詔勅(※ネットのここより)

開戦の詔勅

<原文>

太平洋戦争 開戦の詔勅  (米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ

勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ

達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル

皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ

樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ

東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ

帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ

相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ

逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ甼シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル

妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復

セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ

益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ畭腑薫淵堂罐魘從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル

帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲

蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ

遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

  御 名 御 璽

   平成十六年十二月八日

 
<現代語訳文>
→ 原文では読み方が分からない漢字や意味が通りにくい箇所もあるのでネットの※ここより転載させてもらいます。

神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。

私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、

私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、私の国民はおのおのその本分をつくし、

一億の心をひとつにして国家の総力を挙げこの戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。

そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、

その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、遠大なはかりごととして、

私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、

帝国の外交の要としているところである。今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。

まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 中華民国政府は、

以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、東アジアの平和を乱し、ついに帝国に

武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。

さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、

ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、兄弟である

南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、

東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。

あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、更に帝国の

平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、帝国の生存に重大なる脅威を

加えている。

私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、

米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、

経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。

このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、

ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、

我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。

 皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、

すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、それによって帝国の光栄の保全を期すものである。


<読み下し文>

 天佑(てんゆう)を保有(ほゆう)し、万世一系(ばんせいいっけい)の皇祚(こうそ)を践(ふ)める大日本帝国天皇は、昭(あきらか)に
忠誠(ちゅうせい)勇武(ぶゆう)なる汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)に示(しめ)す。

 朕(ちん)、茲(ここ)に米国及(およ)び英国に対して戦(たたかい)を宣(せん)す。朕(ちん)が陸海将兵(りくかいしょうへい)は、全力を奮(ふる)って交戦に従事し、朕(ちん)が百僚有司(ひゃくりょうゆうし)は、励精(れいせい)職務を奉行(ほうこう)し、朕(ちん)が衆庶(しゅうしょ)は、各々(おのおの)其(そ)の本分を尽(つく)し、億兆(おくちょう)一心(いっしん)にして国家の総力を挙げて、征戦(せいせん)の目的を達成するに遺算(いさん)なからんことを期(き)せよ。

 抑々(そもそも)、東亜(とうあ)の安定を確保(かくほ)し、以って世界の平和に寄与(きよ)するは、丕顕(ひけん)なる皇祖考(こうそこう)、丕承(ひしょう)なる皇考(こうこう)の作述(さくじゅつ)せる遠猷(えんゆう)にして、朕(ちん)が拳々(きょきょ)措(お)かざる所(ところ)。

 而(しか)して列国との交誼(こうぎ)を篤(あつ)くし、万邦共栄(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは、之亦(これまた)、帝国が、常に国交の要義(ようぎ)と為(な)す所(ところ)なり。今や、不幸にして米英両国と釁端(きんたん)を開くに至(いた)る。洵(まこと)に已(や)むを得(え)ざるものあり。豈(あに)、朕(ちん)が志(こころざし)ならんや。

 中華民国政府、曩(さき)に帝国の真意を解(かい)せず、濫(みだり)に事を構えて東亜(とうあ)の平和を攪乱(こうらん)し、遂(つい)に帝国をして干戈(かんか)を執(と)るに至(いた)らしめ、茲(ここ)に四年有余を経たり。幸(さいわい)に、国民政府、更新するあり。帝国は之(これ)と善隣(ぜんりん)の誼(よしみ)を結び、相(あい)提携(ていけい)するに至(いた)れるも、重慶(じゅうけい)に残存(ざんぞん)する政権は、米英の庇蔭(ひいん)を恃(たの)みて、兄弟(けいてい)尚(なお)未(いま)だ牆(かき)に相鬩(あいせめ)ぐを悛(あらた)めず。

 米英両国は、残存政権を支援して、東亜(とうあ)の禍乱(からん)を助長(じょちょう)し、平和の美名(びめい)に匿(かく)れて、東洋制覇(とうようせいは)の非望(ひぼう)を逞(たくまし)うせんとす。剰(あまつさ)え与国(よこく)を誘(さそ)い、帝国の周辺に於(おい)て、武備(ぶび)を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有(あ)らゆる妨害(ぼうがい)を与へ、遂に経済断交を敢(あえ)てし、帝国の生存(せいぞん)に重大なる脅威(きょうい)を加う。

 朕(ちん)は、政府をして事態(じたい)を平和の裡(うち)に回復せしめんとし、隠忍(いんにん)久しきに弥(わた)りたるも、彼は毫(ごう)も交譲(こうじょう)の精神なく、徒(いたづら)に時局の解決を遷延(せんえん)せしめて、此(こ)の間、却(かえ)って益々(ますます)経済上、軍事上の脅威(きょうい)を増大し、以って我を屈従(くつじゅう)せしめんとす。

 斯(かく)の如くにして、推移(すいい)せんか。東亜安定(とうああんてい)に関する帝国積年(せきねん)の努力は、悉(ことごと)く水泡(すいほう)に帰し、帝国の存立(そんりつ)、亦(またこ)正に危殆(きたい)に瀕(ひん)せり。事既(ことすで)に此(ここ)に至る帝国は、今や自存自衛(じそんぼうえい)の為、蹶然(けつぜん)起(た)って、一切の障礙(しょうがい)を破砕(はさい)するの外(ほか)なきなり。

 皇祖皇宗(こうそそうそう)の神霊(しんれい)、上(かみ)に在(あ)り、朕(ちん)は、汝(なんじ)、有衆(ゆうしゅう)の忠誠勇武(ちゅうせいぶゆう)に信倚(しんい)し、祖宗(そそう)の遺業を恢弘(かいこう)し、速(すみやか)に禍根(かこん)を芟除(せんじょ)して、東亜(とうあ)永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全(ほぜん)せんことを期(き)す。

 

天皇の署名と印

昭和十六年十二月八日




「昭和16年生まれ」
岩下志麻、宮崎駿、植村直己、大宅映子、徳光和夫、鹿内タカシ、アントニオ古賀、公原健二、伊藤エミ、ユミ、松本護、ピーと・ローズ、荻本欽一、江田五月、石坂浩二、長山藍子、倍賞千恵子、ジョージ・クリントン、樫山文枝、片岡秀太郎、安倍吉輝、大内延介、安藤忠雄、三田佳子、高石友也、坂本九、渡哲也、ポール・アンカ、サイモン&ガーファンクル、ボブ・ディラン、ジョーン・バエズ、マリー・ラフォレ

 わが世代が世に出た時、わが国は開戦直前の事で、物不足が激しかったらしい。それはこんな歴史的事実から伺える。
・ 毎月二回、「肉なし日」を設けた。
・ たばこ不足で「一人一個売り」厳守。
・ 電球は切れ球と引き換えに売る。
・ 精神教育のため「臣民の道」が発行される。
・ 乗用車のガソリン使用禁止。
・ 世界から孤立し、生活、文化面で鎖国状態。
→ これ、北朝鮮の話ではなく、つい70年前のわが国の現実である。総理をはじめ自民党幹部は「現在は100年に一回の不況だ」と軽々しく言っているが、歴史を直視して物を言ってほしい。


 翔年は母親の母乳の出が悪かったので、山羊の乳で育てられる。そのとき、哺乳瓶につけるゴム製の乳首がなくて大変困ったと、長じて母から聞いた。脱脂綿に山羊の乳を滲みこませて吸わそうと工夫をしてみたが、赤ん坊はどうしてもそれはできなかったそうだ。


 読者にお願い。「昭和16年の出来事」と「昭和16年生まれ」に追加したらいいと思われるこ事がありましたら、コメントでも、メールでも、電話でも、なんででもけっこうですから、教えてください。そういう事項を追加しながら、70歳まで毎年の出来事を積み上げていきます。

 次回のエントリーは主に「昭和17年の出来事」を集めます。

  
Posted by mtmt0414 at 23:12Comments(0)TrackBack(0)