June 05, 2016

映画「マクベス」を観た -新解釈も納得-

マクベス
 
 先日、イギリス映画の「マクベス」を観た。監督も俳優も女優も全部知らない人達だった。肝心のマクベスはどうだったか。新解釈のマクベスだったが、十分納得できる出来栄えだった。


 白状すれば翔年は活字人間なので舞台芸術は(感の鈍さが災いして)苦手なのだけれど、シェイクスピア劇は好きだ。TVドラマなんかの悪人は悪いことはやるが、そのことについてちっとも悩まない。単純人間。そこへ行くとシェイクスピアの描く人間は悪人でも善人でも、本当によく悩む。(笑) 人間の心理劇だ。作者の人間理解、舞台監督の人間理解、それを演じる俳優たちのそれぞれの解釈があって、観客に多様な見方や考え方を訴えかけてくる。台詞には二重、三重の意味が託されている。優れた芸術はみんなそうしたものだろうが……。


 舞台のことはさておき、映画のマクベスは意外な導入部から始まった。あれれっ、マクベス夫妻の幼い息子の埋葬シーン。(舞台の第1幕第1場は三人の魔女の登場のはず)

 その後はストーリィもセリフも、かなり原作に忠実に作られている映画だった。外国映画は字幕頼りの鑑賞だが、今回は古い英語(韻文?)らしくて、ほとんだ聞き取れなかった。ところが字幕のセリフは脚本や舞台のセリフと同じ見覚えあるフレーズが随所にあった。(シーンに合わせて上手く嵌めこんであった)




マクベス (2)

  帰宅途上の電車の中で、映画の名シーンを反芻していると、マダムマクベスが悪の権化みたいな一方的な描かれ方ではなかったなぁと気が付いた。もちろん人殺しを主人マクベスにするように仕向け、なにかにつけ悩み、弱気になるマクベスを、強烈に煽る基本的役回りは変わらないけど…。 どうやら、冒頭のシーンと関係がありそうだ。


 想像をたくましくすると、マクベスは武将だから、多分家庭はおろそかにせざるを得なかっただろう。企業戦士だった現在の我々がそうだったように…。ひょっとしたら、戦いの遠征中で最愛の息子の死に目にも会えなかったかもしれない。そういう状況で最愛の息子をなくしたとしたら、マダムマクベスの「喪失感」は大きく、夫への失望感も大きかったにちがいない。心を病む遠因になった可能性がある。 夫婦の間の亀裂も生じた……。

 これがこの映画監督ジャスティン・カーゼルの新解釈だったのではないだろうか?
 
 シェイクスピアも、城と妻子を置き去りにして外国へ逃げた城主マグダフのことを夫人にこう語らせているから、あながち見当違いではないと思う。
マグダフ夫人: 「分別! 妻を捨てて赤ん坊たちを捨てて屋敷も財産もそのまま捨てて自分だけ逃げることが? 愛がないのですよ。情なしなのですよ。鳥のうちでも一番小さいみそさざいさえ、巣の中の雛を守るためならふくろうとだって闘います。(以下略)」

 小さい小さい私事ながら、初孫の誕生の時、翔年はアメリカで碁を打っていて、すぐに赤ん坊の顔を見に産院に行けなかった。これをヒドイ男だと何かにつけて蒸し返されてる。(笑) 女とはそうしたもの?

 
 それにしても、イギリス映画の風景シーンは荒涼としていて暗いなぁ。ストーリィとはピッタリだけど…。

 



男というものはいつもそうだが、わが家から離れているときが、いちばん陽気なものだ。
          -シェークスピア−

女には、どうしてもわからないテーマが一つある。おとこは仕事に注ぐだけの情熱をなぜ家庭にそそげないのか、ということだ。
          -D・デックス-




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