January 02, 2016

日本人のあたらしい死生観は? -寿命百歳時代-

 「人間(ジンカン)五十年、下天(ゲテン)の内をくらぶれば、夢幻(ユメマボロシ)の如くなり」  -敦盛-
 この章句を正確に読むと、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない」という意味になるらしい。なぜなら、「下天」とは、六欲天の最下位の世で、一昼夜は人間界の50年に当たり、住人の定命は500歳とされているのであるから。(人間50年は人生50年という意味ではないらしいです)

 また、古典には
「死生命有り、富貴天に有り」 -「論語」顔淵十二-
(訳) 人間の死生或いは富貴貧賤というものはすべて天命にかかるものである。
という語句が見える。
 
 これらから考えると、昔の死生観は「たとえ身の上に何がふりかかろうと、その運命に甘んじ安んじなければならない」とするもののようだ。



 ところが、文明の発達によって医療技術の進歩とともに我々が住む社会が比較的安定してくると、いつのまにか長生きするのがあたりまえで、長生きを善しとする風潮が蔓延するようになった。ここまでは当然のなりゆき。ところが…

 ドライに言わせてもらうなら、噛む力も、飲み込む力もなくなっても、胸に穴をあけて食道に栄養剤を流し込んだり、血管に栄養液を流し込んで延命をはかる。呼吸する力がなくなると、人工呼吸器をとりつけ、無理やり酸素を肺に流し込んでとにもかくにも生かそうとする。患者の意識があるかないかなんてことは考慮の外、もっと酷いのは、ほとんど回復が見込めなくても、当事者の意思にも関係なく(意思を伝える能力がない)、そう務めることが当たり前になっているらしい。

 そういう風潮にたいして、人間の生き方は優れて個々人の考え方によるべきであって、「社会や世間や家族が当事者の意思を無視して、命を永らえるためにしゃにむに医療行為を行うことは、はたしてどんなものだろうか? 
 自分はそんなことを望まない。不幸にしてそういう事態に陥ったらどうしたいか、どういう処置を望むのか、意識がハッキリして正常な判断ができる時に、前もって宣言しておこう」という新しい考え方が生まれた。


Living Will001

 そういう思いを持った人々が「日本尊厳死協会」を発足させたのが1976年だった。奇しくも、この年は自宅で亡くなる人より、病院で死亡する人が多くなったのでした。


 現状はどうかというと、死亡場所の割合は
病院が77.3%、老人施設が7.8%、自宅12.8% です。


 現在は高齢化社会まっしぐらの時代です。
 10年後は高齢多死社会になっていると予想します。

 翔年は高齢多死社会における終末期の医療は個々人が覚悟をもって決めるべきだと思っています。



(画像をクリックすると文字が拡大し読めます)
Living Will002
尊厳死協会発足:1976年 登録者(会員) 200余人

それから20年後
翔年が協会に入会:1996年 登録者 56,921人(延べ)

また20年が経って、まだこれだけの会員数
現在の協会会員:2015年11月末 118,103人
 会員は高齢者が多いので、会員数を増やすのはなかなか大変なこと、獲得の努力をしなければ自然減になります。(数字はリビング・ウイルによりました)


 最後まで自分のことは自分で決めるという「自己決定」を好む方は是非「尊厳死協会」にお問い合わせ下さい。








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