October 17, 2014

『軍医殿! 腹をやられました』 -軍医の娘、中野圭子さんが本を再販- 

 一昨日、同志社岩倉高校卒業55周年の集いが宇治の「花やしき浮き舟園」であった。63名の懐かしい顔や誰だか全然分らない顔にたくさん出合った。(笑)
 それでも多士済々の級友達が55年間のそれぞれの歴史(個人情報)を開陳するのだから、興味が湧かないものは一つもありませんでした。今日のエントリーはその中の一人、中野圭子さんの父上のビルマ戦記「靖国街道」の再販についてです。

中野信夫著「軍医殿! 腹をやられました -インパール作戦ビルマ背走記」 かもがわ出版刊(カバーは著者の手になるもの)
中野圭子の本001
 まず、彼女がお父上の著書を再販したいきさつをお聞きください。(はしがきより)
 (前略)私の父は軍医として33歳でこのインパール作戦に参加、コヒマから撤退してビルマ南東部を転戦する中で終戦を迎え、英国軍の捕虜となって一年近く労役につき、1946年(昭和21)年7月に復員しました。父の所属する第31師団第138連隊第2大隊は、作戦開始時には1050人将兵がいましたが、生きて日本の土を踏んだのは100人余りと十分の一の生還率でした。(中略) 自宅療養中につづったのがビルマ戦記「靖国街道」(1976年刊)です。(中略)
 この本を手にしてくださった方にお願いします。「なぜ世界中で<死にたくない人>がいのちを絶たれてしまう戦争がくりかえされるのか」、じっくり時間をかけて考えてみてください。(以下略)

→ インパール作戦とは1944年(昭和19年)3月に日本陸軍により開始され7月初旬まで継続された、援蒋ルート(連合軍が蒋介石を支援する物資輸送ルート)の遮断を戦略目的としてインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことです。補給線を軽視した杜撰(ずさん)な作戦により、多くの犠牲を出して歴史的敗北を喫し、無謀な作戦の代名詞として現代でもしばしば引用されています。


 翔年は伯父からソ連での長い苦難の抑留生活物語をなにかにつけて聞いて知っている。ところが翔年の次の世代になると文字どおり戦争を知らない子どもたちなので、中野さんが本の「再販」を決断をなさったことは大きな意味があると信じます。

 ちょっと本のページを覗いて見ましょう。
第1章 コヒマへ突進 インパール作戦はじまる
 インパール作戦の開始日は、1944年(昭和19)年3月15日でした。その前夜から、私が所属する第2大隊は、ビルマ北部、コウヤ付近のチンドウィン河岸に集結していました。(中略)川を渡る最中に敵の攻撃を受けたら……と思うと、胸が締め付けられるような緊張がはしりました。

→ こうしてこの部隊は2ヶ月間戦闘をします。軍医殿も白兵戦をまのあたりにします。この間に日本軍の戦力は低下し、一方、英軍は応援兵力を得て攻勢に出てきます。そしてついにコヒマからの撤収命令が出ます。

第2章 コヒマからの撤退 ”白骨街道”を背走
 街道沿いの村落は、どこも日本軍の兵量集めに荒らされ、50kmも奥地に行かないと入手できない状態でした。
 私たち第2大隊も被害をうけまhした。食塩などの食料を武装した日本兵に巻き上げられたのです。路傍の傷病兵がまだ生きているのに靴を奪い取られている姿を、何度か目撃しました。

→ 軍医殿の目は冷静に戦場の人間の行動を見ていますね。

第3章 イラワジ会戦と英軍の攻勢
 第138連隊を”必勝部隊”と”敢闘部隊”に分けるという話です。必勝部隊はタイ、マレーに転進、敗戦経験のない下士官、兵と合体して戦力部隊をつくり、局面の転換を図る。一方、敢闘部隊は現地にとどまり、南下してくる敵に死力をつくして戦う。必勝部隊には現役将校と若干の優秀な下士官と含むが、兵は用員以外とらない--というものです。私たち第2大隊は、隊長以下ほとんどが敢闘部隊ということになります。

→ ここで軍医殿は「この二分方式は現役、すなわち高級指揮官の身勝手な発想である--というのが、第2大隊のおおかたの見解でした。」と明確に記述されています。組織の下から見たほうがよく見えることがある。

 「兵隊や予備役は消耗品」を当然視する陸軍の思想が、はしなくも露出したものでした。このもやもやと不快の最中に「玉音放送」がありました。

→ あの日本の一番長い日、昭和20年8月15日です。

第4章 敗戦、収容所 そして帰還
 爆撃で落ちたビリン河の鉄橋を再建している英軍工兵隊に協力する、というのが私達の役務でした。第138連隊から350人のほか、第58連隊の将兵も参加し、人数は約1000人にのぼりました。その作業隊を第58連隊の少佐が統括しました。

 → その数年前には日本軍が英国の捕虜を使って、クワイ河に鉄橋をかけていますね。映画「戦場にかける橋」を見た方もいらっしゃると思います。この映画では捕虜の扱いが酷い日本軍とそれでも誇り高い規律ある英軍の兵士たちが描かれていましたね。歴史の皮肉です。
 翔年の伯父もソ連の捕虜となって長い抑留生活を送っています。僕達の世代は戦時中は赤ん坊だったため戦場には行きませんでしたが、戦争の被害を何らかの形で受けています。翔年の祖父は戦後GHQから「公職追放」にあっています。(後に解除された)
 碁友のアメリカ人のK氏の場合は奇跡的です。両親がユダヤ系ドイツ人だったため、ナチの手を危ないところで逃れてアメリカに渡られたのですが、彼はお母さんのお腹の中にいたということです。
 
著者のあとがき
 インパール作戦に参加した第138連隊の生き残りの者にとって、第31師団(烈)の佐藤幸徳師団長は、命の恩人として尊敬されています。第15軍(林)の牟田口廉也軍司令官の思惑通りに動かず、厳しい軍命に抗してコヒマ撤退を決断されたからです。もし、佐藤師団長の撤退命令がもう2週間遅かったら、第2大隊は全滅していたでしょうし、私の命もなかった、と思っています。(中略)
 戦争に負けたことが、天皇を頂点とした軍部の権力政治を転換するきっかけとなり、生き残った日本人が、人間らしい生活を始める第一歩だったと思います。
 この戦争で命を落とされた幾多の方々へ哀悼の合掌をもって稿を閉じたいと思います。

→ 翔年も同じ思いです。合掌!


 この本は定価600円(+税)です。もしお入用の方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。中野さんへの連絡の労を喜んでとらせて頂きます。その場合はワンコイン(500円)ポッキリです。左蘭の「いきいき塾とは」に世話人へのメールアドレスが書いてあります。





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