July 27, 2009

深坂古道を歩く

 去る25日、梅雨空の下、深坂古道を歩いた。深坂古道とは敦賀と琵琶湖を結ぶ最短経路の古代の道で、塩の道でもあるし、紫式部が先年の昔に歩いたといわれる街道でもある。標高370mの峠を越える道で、現代では、東側の国道8号線と西側の国道161号線に交通の役目を譲っている。(明治11年頃に廃道となった)深坂古道に興味のある方はここをご覧下さい。

深坂古道

 紫式部は父の藤原為時が越前に赴任した時、この峠道を父と越えた。その時にこんな歌を詠んでいる。

塩津山といふ道のいとしげきを賎の男のあやしきさまどもして「なおからき道なりや」といふを聴きて
知りぬらむ 往来にならす 塩津山 世に経る道は からきものぞと   紫式部

(意訳)お前たちは行き来して慣れた塩津山なのにこんなにも大変です。これでよくわかったでしょう。世の中というのはこの道のように厳しいものなのですよ。
→ この歌を読んだ時、紫式部は20歳前後だった。取りようによってはちょっと高慢ちきで嫌味に聞こえますナ。 

万葉集に、この塩津山を読んだ笠朝臣金村の歌が二首ありました。
ますらおの弓上(ユズエ)振り越し射つる矢を後見る人は語り継ぐがね  万葉集巻三364
※ 峠を越える時に、矢を射る儀式のようなことをした。その矢が高い木に刺さったのを見て詠んだらしい。

鹽津山 打ち越え行けば 我が乗れる馬ぞつまづく 家恋ふらしも   万葉集巻三365
※ 当時、旅に出ていて道中色んなことが起ると、それは恋人や妻が自分を想っていてくれるからと考えるのが一般的だったらしい。鹽津(シオツ)峠は険しかったのでアクシデントはいろいろあったことだろう。

 古道は峠道だし、古歌の取り合わせも良かったけれど、翔年はもっと興味をもったことがありました。それは平清盛が息子の重盛に命じて深坂峠を開削して、近江の塩津と敦賀を連結する運河計画をしていたことです。残念なことに、この工事は途中で挫折するのですが、ともかく、こういうスケールの大きな土木工事を平清盛が構想したことに大変感銘をうけました。ドラマなどでは平安貴族の華美なところ、軟弱なところが強調されて描かれることが多いけれど、この地に運河構想を持った清盛が俄かにスケールの大きな人物に思えてきました。調べてみる価値は十分にあると思いました。

 おまけ:この地方を読み込んだなつかしい鉄道唱歌をどうぞ。

66番
敦賀はげにもよき港
おりて見てこん名どころを
気比の松原気比の海
官幣大社気比の宮

 68番
疋田、柳瀬、中之郷
すぎゆく窓に仰ぎ見る
山は近江の賤が嶽
七本槍の名も高し




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