一方、キリスト教では、信じないから分からんということ以外に、翻訳による言葉の問題で訳が分からんようになっている箇所がけっこうある。その一例を聖書から引いて記録しておきたい。
まず、手もとの聖書「マタイによる福音書」(21章)から、日本語と英語を引用する。 -NEW TESTAMENT, 国際ギデオン協会1965年版−
17 イエスは三度目に言われた,「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか」。ペテロは「私を愛するか」とイエスが三度も言われたので,心をいためてイエスに言った,「主よ、あなたはすべてをご存知です。わたしがあなたを愛していることは,おわかりになっています」。イエスは彼に言われた,「私の羊を養いなさい」。
17 He saith unto him the third time, Simon, son of John,lovest thou me? Peter was grieved because he said unto him the third time, Lovest thou me? And he said unto him, Lord,thou knowest all things; thou knowest that I love thee. Jesus saith unto him, Feed my sheep.
簡単な問答なのに、日本語でも英語でも意味がわからない。三回も同じ事を聞くイエスも嫌みな男だ。くどい。禅問答みたいで意味がストンと通らない。この部分だけでなく、この前にある最初の質問から3回をすべて読んでも分からない。
その原因は「愛」という言葉にある。イエスが三度も「愛するか?」と聞いたのに対して、ペテロは三度とも「愛します」と答えているのだが、原語のギリシャ語ではこうなっているそうだ。
くどいイエスの三回の言葉を要約すると
一回目:イエス agape? → ペテロ fileo
二回目:イエス agape? → ペテロ fileo
三回目:イエス fileis? → ペテロ fileo
となる。さすがのイエスも三回目にはagapeをペテロが使ったfilosに変えているのだ。訳語はいずれも「愛」だから、読者は訳が分からなくて当たり前。分からないのに分かったような顔をすることのほうが恥ずかしい。
キリスト教の「愛」には見返りを求めない愛(agape)と友愛とでもいうべき愛(fileo)と自己中心的な愛(eros)の三種類があるから、この三つを区別せずに「愛」と訳している先の「愛」問答は分からなくて理の当然。エロス愛しか知らない翔年のレベルでは全く訳が分からなくなるのも当たり前。これも語る資格がない。黙るしかない。
さて、そのfileoを語源とするよく知られている言葉の数々。
哲学(Philosophy)=philo(愛)+sophia(智)
慈善事業(philanthoropy)=filos+anthropos(人)=人を愛する
博愛主義者(philanthoropist)=上と同じ
交響楽団(philharmonic orchestra)=filos+harmonic(和声)+orchestra(楽団)=音楽愛好団
フィラデルフィア(philadelphia)=(filos+adelphos(兄弟)=兄弟愛 → 米国ペンシルヴェニア州の都市がこんな語源から出来ているとは知らなかった。面白い。
これはどうだろうか。
上智大学? → これも語源は同根ではないかな?
愛知県? → これはどうなんだろう? 全くわからない。どなたか、教えてください。