June 13, 2008

モンテーニュの「随想録」より

荒木昭太郎責任編集の「モンテーニュ」を読んだ。難しくてよく理解できたとはいいがたいが、彼の「随想録(エッセー)」にある言葉を二、三ピックアップしておきたい。

(1)引用について
「わたしの借用しているもののなかに、わたしが自分の主題を引き立てるものを選び出すことができているかどうか、見てほしい。というのは、わたしは、あるときは言葉を使う力が弱いために、あるときは理解する力が弱いために、それほどよく言いあらわせないことをほかの人々に言わせるようにするからだ。」

→ 確かにモンテーニュは古今の文人、哲人からの引用文は多い。ただ、彼が言うように理解する力が力が弱いとか、何かが不足しているからそうしているのではないのは確かだ。その証拠にこうも言っている。

「私の地の文の上に移し植えて、わたしのものと混ぜ合わせてしまっているそれらの論拠や創意にたいして、わたしはその折々に、わざと作者を記さないようにしておいた。(略)わたしは、ひとが、わたしのつもりでブルタルコスの鼻をはじき、わたしのつもりでセネカを非難してひどい目にあえばいいと思っている。」

→ これは古典を自家薬籠中のものにしている人だからこそ言える言葉だ。翔年の引用した箇所が不適切で読者に誤解を与えるといけない。モンテーニュは文飾、虚栄、権威主義、衒学などは完全に否定している立場を貫いていると付け加えておきましょう。さまざまな言い訳を彼はしてはおりますが……。

 翔年もよく引用するが、自分の意見を補強するためと言うより、自分が独断や偏見に陥っていないかどうか確かめたい気分の方が強い。

(2)行為について
「われわれの行為はつぎあわせた断片でしかない。『彼らは快楽を侮蔑するが、苦痛にあうと弱々しくなる。栄誉を軽蔑するが、不名誉にあうとうちのめされる』そして、われわれは偽のしるしを見せて名誉を手に入れようとのぞむ。」

→ 辛らつなものです。

(3)自分について
「おずおずとしていて横柄な、貞淑で好色な、おしゃべりで無口な、頑強でひよわな、頭が切れてぼやっとした、むしゃくしゃしていてにこやかな、嘘つきでまじめな、学識があって物知らずの、鷹揚でけちで浪費する、すべてこういう性質を、わたしは、自分の向きを変えるにつれて、すこしずつわたしのなかに見つける。そして、誰でも注意深く自分自身を研究する者は、自分の中に、そしてその判断そのものの中にさえ、この動きやすさと調和のなさを見出すのだ。」

→ なんと正直な告白だろう。読んでいて読者はドキッとするにちがいない。「エッセー」の魅力の一つだ。

(4)読書にもとめるもの
「わたしが書物のなかに求めることは、ただ、公正な娯楽によっていくらかの楽しみを自分に与えようとすることだけなのだ。そうでなくて、突っ込んで勉強する場合も、私自身をはっきり知るということにふれている、そしてわたしにりっぱに死に、りっぱに生きることを教えてくれるような学識だけを求めているのだ。
 それらの目標へ向かってわたしの馬は汗を流して進まなければならない。」

→ 異論のない方が多いのではないでしょうか。

(5)あらゆるものごとについて、自由に意見を言う
「わたしはあらゆるものごとについて、自由にわたしの意見を言う。まったくそれは、たぶんわたしの能力を越えるような、わたしの管轄のなかに全然所属していないものごとについてもそうなのだ。わたしの言うことは、わたしの視力の度合いをはっきり示すためで、ものごとの寸法を示すためではない。」

→ この章句を見つけたときはうれしかった。モンテーニュと比肩するのはおこがましいけれど、翔年はたとえ自分の能力を越えた分野であっても、意見を言いたいときには臆せずに物申したいと考えて、そのように宣言し、実際、そうしてきたのだから。
 現代社会において、自分の意見を持つということはそういうことなのだ。そうでなければ、政治に対して有効な行動がとれる訳がないと思う。そうする態度は市民としての義務とさえ思う。


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この記事へのコメント
ならのO様

少し理解がすすみました。
ありがとうございました。
Posted by ユリウス at June 15, 2008 00:53
(4)に書かれていることを自分に当てはめますと、心を奮い立たせて現象解明することに理論的に、または理論武装して達成できることではないかと思うことです.つまり、バラツイた特異な実測値,その結果がもたらしている現象(悪い出来事B)に対して正常な値の軌跡を導きだすこと(A)によって楽しみや喜びが涌いてきます(結構、科学技術分野では沢山成功例がありますが、立派に死に、立派に生きるとまでは思っていませんが).
 一方、政治社会面では世の中A→Bで乱れ放しになっていて、B→Aの効果的な動きがないようで、不平不満の身近な運動で終わってしまい、じわじわとツケが累積され、山積みまで来てます。
翔年が最後に書かれておられることはB→Aの原則と捉えております.
政治面はあまり明るくありませんので、ここはこんなところで終了致します.
Posted by 奈良のO at June 14, 2008 23:38
ならのO 様

ちょっと難しくて理解できません。
「しかし、・・・・」以降のことを飛躍させないで、もう少し噛み砕いて教えてください。
お願いします。

Posted by ユリウス at June 14, 2008 01:45
蒸し暑くなって来ましたがご機嫌よくお過ごしのこととお察し申し上げます。昨日、社会保険事務所に届書を出しに行きました。事務所の前で長蛇の車、事務所の中は満員、おそらく窓口は何人もに同じ説明を繰り返していることでしょう。法律の施行で何て多くの無駄なエネルギーが発生するのか。
「法律(理想と案)と行動(現実)」、「平衡と非平衡(現実)」、「層流と乱流(現実)」、「理論値と実測値」・・・は以外と前者が美しく見えて、後者が汚くみえバラツイてます。しかし、(4)読者にもとめるものは後者から前者を見ていると思います。小生は平衡と非平衡、層流と乱流から幾つか発見した楽しみを得たような気がしています。
Posted by 奈良のO at June 13, 2008 20:36