(1)引用について
「わたしの借用しているもののなかに、わたしが自分の主題を引き立てるものを選び出すことができているかどうか、見てほしい。というのは、わたしは、あるときは言葉を使う力が弱いために、あるときは理解する力が弱いために、それほどよく言いあらわせないことをほかの人々に言わせるようにするからだ。」
→ 確かにモンテーニュは古今の文人、哲人からの引用文は多い。ただ、彼が言うように理解する力が力が弱いとか、何かが不足しているからそうしているのではないのは確かだ。その証拠にこうも言っている。
「私の地の文の上に移し植えて、わたしのものと混ぜ合わせてしまっているそれらの論拠や創意にたいして、わたしはその折々に、わざと作者を記さないようにしておいた。(略)わたしは、ひとが、わたしのつもりでブルタルコスの鼻をはじき、わたしのつもりでセネカを非難してひどい目にあえばいいと思っている。」
→ これは古典を自家薬籠中のものにしている人だからこそ言える言葉だ。翔年の引用した箇所が不適切で読者に誤解を与えるといけない。モンテーニュは文飾、虚栄、権威主義、衒学などは完全に否定している立場を貫いていると付け加えておきましょう。さまざまな言い訳を彼はしてはおりますが……。
翔年もよく引用するが、自分の意見を補強するためと言うより、自分が独断や偏見に陥っていないかどうか確かめたい気分の方が強い。
(2)行為について
「われわれの行為はつぎあわせた断片でしかない。『彼らは快楽を侮蔑するが、苦痛にあうと弱々しくなる。栄誉を軽蔑するが、不名誉にあうとうちのめされる』そして、われわれは偽のしるしを見せて名誉を手に入れようとのぞむ。」
→ 辛らつなものです。
(3)自分について
「おずおずとしていて横柄な、貞淑で好色な、おしゃべりで無口な、頑強でひよわな、頭が切れてぼやっとした、むしゃくしゃしていてにこやかな、嘘つきでまじめな、学識があって物知らずの、鷹揚でけちで浪費する、すべてこういう性質を、わたしは、自分の向きを変えるにつれて、すこしずつわたしのなかに見つける。そして、誰でも注意深く自分自身を研究する者は、自分の中に、そしてその判断そのものの中にさえ、この動きやすさと調和のなさを見出すのだ。」
→ なんと正直な告白だろう。読んでいて読者はドキッとするにちがいない。「エッセー」の魅力の一つだ。
(4)読書にもとめるもの
「わたしが書物のなかに求めることは、ただ、公正な娯楽によっていくらかの楽しみを自分に与えようとすることだけなのだ。そうでなくて、突っ込んで勉強する場合も、私自身をはっきり知るということにふれている、そしてわたしにりっぱに死に、りっぱに生きることを教えてくれるような学識だけを求めているのだ。
それらの目標へ向かってわたしの馬は汗を流して進まなければならない。」
→ 異論のない方が多いのではないでしょうか。
(5)あらゆるものごとについて、自由に意見を言う
「わたしはあらゆるものごとについて、自由にわたしの意見を言う。まったくそれは、たぶんわたしの能力を越えるような、わたしの管轄のなかに全然所属していないものごとについてもそうなのだ。わたしの言うことは、わたしの視力の度合いをはっきり示すためで、ものごとの寸法を示すためではない。」
→ この章句を見つけたときはうれしかった。モンテーニュと比肩するのはおこがましいけれど、翔年はたとえ自分の能力を越えた分野であっても、意見を言いたいときには臆せずに物申したいと考えて、そのように宣言し、実際、そうしてきたのだから。
現代社会において、自分の意見を持つということはそういうことなのだ。そうでなければ、政治に対して有効な行動がとれる訳がないと思う。そうする態度は市民としての義務とさえ思う。