June 07, 2008

ラ・ラ物資のこと−世代を超えた感謝

 先日、アメリカのノースキャロライナ州から来たピーターが、無料宿泊提供に対して、何回も感謝の気持ちをのべるので、そんなに恩に着ることはない、気にするなと言おうとして、ついこんなことを言ってしまった。

 「60年前に戦争が終わった時、国中が混乱しており、日本中に食べるものがなかった。翔年が小学生の頃、アメリカから脱脂粉乳が送られてきて、僕たちは学校給食でそれを飲み、その栄養のお陰で育った。心のどこかに米国に感謝する気持ちを持っている。」と。
 「戦後、ドイツとニッポンに援助物資を贈ったことは聞いている」とピーター。

 ただ、ワン・ワード・カンバセーションなので、脱脂粉乳がまずかったことやそれがもとで、ミルク嫌いに陥ったことまでは説明できなかった。かえってよかったかもしれないが……。


 さて、昭和21年から講和条約発効の27年まで、学校給食として使われた脱脂粉乳やコーンはわが国にとってかけがえのない食糧であったことは確かだ。翔年は田舎に住んでいたから餓死する危険はなかったけれど、良質蛋白、特に動物性蛋白質は望んでも口にすることができなかった頃だから、なにはともあれ、これらの援助物資が日本人を飢餓からすくったことはまちがいない。

  この援助物資はラ・ラ物資(ライセンスド・エージェンシー・フォア・リリーフ・イン・アジア=アメリカのアジア向け救援公認団体)と略称で呼ばれることが多い。

 皇后のこんな短歌が残っている。

ラ・ラのしな つまれたる見て とつくにの あつきこころに 涙こぼしつ


(ノンフィクション作家の上坂冬子さんによれば、実はこのラ・ラ物資の生みの親はアメリカ在住の日本人であるということです。)


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