July 14, 2007

続・続・尾崎秀実の獄中からの手紙

 碁友のT氏が尾崎秀実に興味を持たれて、本を読みたいと言われた。「愛情はふる星のごとく、上」を喜んでお貸しした。

 獄中から妻と娘に宛てた手紙の抜粋を続けます。

 この頃食糧が減って来たので腹が減って仕方がありません。当然のこととはいえ、今年は一層ひどいと思います。外で働く身にはさぞこたえることでしょう。私のように一室にちっ居する身ですら、こたえますから。お弁当をとらないのも実はその量が少ないからです。もう、質の問題よりも量の問題なのです。寝ても覚めても食うことばかり考えています。少し浅ましいと思います。が、これが人間が追いつめられたぎりぎりの姿でしょうが、興味深く自らを観察しております。
(中略)
手がかじかんで書きにくいことです。(昭和19年1月8日)


 こんな食糧事情の中でも、ハルトマンの蒙古シベリア横断記を読んで「大変愉快」といったり、冒険的な夢が味わえて、心を鼓舞されると書いている。彼が獄中で読んだ書籍リストを作りたいくらい、読書は広範囲に及んでいる。

愛情はふる星のごとく、下

 昨夜所内の教誨放送で大増税のことを聞かされました。私がかねて言っていた財政インフレは戦争の必要によってぐんぐん進んできました。生活の圧力となって英子たちをよるべない日常にひしひしと迫ってくることを思って、ゆうべは実に心を苦しめました。英子たちをよるべない運命におとし入れた刑罰を私はこうして切実に受けていることを思います。(昭和19年1月20日)


 獄中にあっても、日本の戦争が破滅へ向かっていることを見通している。驚くべき洞察力。

 昨日から上申書筆記に着手しました。或いは私に縁の深かった筆を執ることの最後の機会になるのだと思うと、何か書くことを嬉しい気持ちが湧いてきて特殊のものながら楽しんで書き進んでいます。とは申しながら、北向きの筆記室の寒さは言葉に絶するものがあり、板の腰かけに座していると手はかじかみ、腰から下は感覚を失うほどなので、長いこと続けることは出来ません。毎日ぼつぼつしかし出来るだけ早く書くつもりです。(昭和19年2月1日)


 この日から宛名が英子様、楊子様になっている。それまでは英子殿、楊子殿だったものが、以後処刑されるまでずっと「様」である。このあたりで、心境の変化があったものと思われる。

 

 心の問題−気持ちの問題などを(しかもこうした特別の条件下で)表現することは、私の従来の文筆活動の表現形式の範囲外であったのですから不得手なことは申すまでもなかったのです。
 ところが書き始めると、もう誰に見せようという気もなくなり、ことに裁判官に見てもらうなどとは考えなくなって、ひたすら心のおもむくままに今の自分の赤裸々の気持ちが率直に書けて行きました。それだけに所謂転向者の手記などというものと全く別なものが出来たと思われます。(昭和19年2月8日)


 このあたりでは完全に生への執着がないかの如く見えます。

 (竹内弁護士が)上申書が大審院にとどいたこと、一ヶ月以内に判決あるものと覚悟せよとのこと、を伝えにわざわざ来てくださったのです。勿論英子たちも今更何にも驚かないでしょう。私がこれまで語ってきた言葉は決して感情を誇張して来たのではありません。総て事の成り行きを冷静に見透しての上のことなのです。万に一つも甘い考えは持っておりません。(19年3月13日)


 どのような判決になるか、彼は知っている。

 最後の時の装束はすっかりととのっています。私は二年前位から心がけてあったのです。それで真っ白なチリ紙、新しい草履、新しいハンケチ、新しい足袋、これだけ別にとりのけてあるのです。(中略)
 新に物の差し入れなどする場合は大体私の方から頼んだ上にして下さい。一般に事足りておりますし、物の貴重な際無駄になってももったいないと思いますから。(昭和19年4月7日)


 この日、上告棄却のいい渡しがあった。即ちこれは死刑が確定した当日の手紙です。彼はとっくに覚悟はしていた。


 楊子、ほんとにすまなかった。喜びの限りないお前の青春にこんな深い悲しみを与えてしまって、親として私は何とお前にわびてよいかわからない。他人に対してのあやまちは、死をもって詫びる、つぐないをつけるということが出来ます。しかし英子や楊子のためには死んではつぐないにならなかったのです。私はどんなに苦しくともまた恥をしのんでも、楊子のためには生きられるかぎりは生きようと思ったのでしたが。この上はただ、一日も楊子がこの悲しみにうち克って、勇ましく前進してくれることを祈るばかりです。僅かに十六の春を迎えたばかりで、まだ病気でもない人生の活力の頂点にあるべき父親を突然奪い去られるのですからさぞ辛いことだと思います。(昭和19年4月12日)


 覚悟はしていても肉親の情は絶ちがたい。このあいだ靖国神社で見た戦場へ出陣していく青年の両親に宛てた手紙もそうだった。覚悟の前の心情が胸を打つ。
 尾崎秀実のしたことと出征していった若者達のしたこととは政治的に見ると正反対の行動ではあるが、両者とも、当時の政治の犠牲者であることは間違いない。その責任者を日本人自らがウヤムヤにしてしまってよいはずがない。


 楊子よ、七日附けの手紙はすばらしかったぞ。実は刑の確定した後の日付けだったし、楊子がどんな気持ちだろうかと実は天を仰ぐような気持ちで開いた、ところがどうだろう。絵入の面白い学校のお引越しの報告がいろいろ書かれてあった。おやまだ知らないのかしらと思っていたら、最後のさりげない一句でなにもかもはっきり知っていることが分かったのだ。(中略)
 この手紙を通して、僕は楊子と英子の心の用意の深さを知ることが出来た気がする。感謝したい気持ちだ。


 娘は何もかも知った上で、無心の手紙を書く。さりげない一句に真意を託す。この親にしてこの子あり。


 インフレーションが始まっており、滔滔たる換物時代に私が物を売ることを云うのは、何も換価をいそぐわけではないのです。端的にいえば時代をもっと深刻に考えていて、身軽になること、物にとらわれることなく一切を経験及び肉体の養いとして時代に往き抜く用意をすすめているからなのです。この精神と覚悟を忘れないように。
(19年4月24日)


 獄中にあって、狂乱のインフレが始まることを彼は見通している。
 予断ながら、戦後農地解放によって没落地主になった我が家では、狂乱物価に苦しんだ末に、お金や物の価値が当てにならないことを身を持って学んだ。そして、子供達に財産を残すことはできずとも、自立と自活の力をよりよい教育を受けさせることで達成しようとする方針を亡母は選んだらしい。戦後になって初めて、当時の庶民たちはみんな身をもってそんなことを感じていたのだと思う。

 大いなる時代が既に動き出している時、もはや先覚者は必要はないので、ただ若々しい力が溌剌として動くことでしょう。つまり楊子たちの時代なのです。
 楊子におくる感懐

人の世の無知のいばらを披(ヒラ)くべく峻しき道に命はてなん


 続く(もう一回、書きたく思っています)



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