July 01, 2007

続・尾崎秀実の獄中からの手紙

 6月24日のエントリー「尾崎秀実の獄中からの手紙」の続きです。この手紙は尾崎秀実(1901-1944)が獄中から家族(妻と娘)に宛てたもので、「愛情はふる星のごとく」の上巻に昭和16年11月7日から18年12月29日まで、下巻には昭和19年1月6日から11月7日(処刑された日)までの書簡が収められている。

愛情はふる星のごとく、上

 スパイ容疑で逮捕され、悪法といわれる治安維持法によって彼は処刑されたわけですが、彼は卑劣なスパイではありません。人物、識見、知性、人間性のどれをとっても超一流であると思います。翔年は吉田松陰や尾崎秀実のように、明晰な頭脳と熱い情熱をもった一級の人物が、時代より一歩先んじていたために、思想に殉じて刑死しなければならなかった無念さを思うとやり切れません。どんなことがあっても、思想犯を死刑に処すことに反対です。

 心うたれた章句を上巻から抜粋します。


 この前楊子にいろいろ習わしたいのが便宜がなくてほってあるとのことでした。私はそれでよいのだと思います。私の経験からみても少なくとも学問のことは人に習うのではなくて、自学する以外に方法はないのだと思います。自分から勉強に興味が出てくればぐんぐん進むものです。(昭和18年5月3日)

 → これは正論。教育の正しい方法論は、教え込む「詰め込み教育」ではなく、自らが気づく「啓発教育」であるべきだと思う。詰め込み教育や管理教育をまじめにやる先生が一番こまる。子供の好奇心を摘んでしまっては元も子もない。


 英子の誕生日をどうしても思い出せない。三月だったか、七月だったか、これはここに来て以来、何度かかききたいと思っていたのだが。(昭和18年5月8日)

 → これには微笑を禁じえない。最高の知性を誇る男が妻の誕生日を忘れてしまって、聞くに聞けない状態にあったとは。
我々、凡夫は忘れたら、尾崎秀実を例に出して、安心して何回でも聞こう!


 ただ一つ心がかりの点は英子や楊子が予期よりも重大な結果に対して悲しむことのある場合です。これもただも一つ勇気を出してぐっと踏み応えてもらいたいと願うのです。(18年5月25日)

 → 彼はこのとおり、出獄はできないし、極刑もありうると覚悟している。
 ところが、彼の周囲は日本の敗北は必定、その後政治犯は釈放されるという甘い筋書きをしており、刑期が5年でも10年でも同じことだと考えていた。
 彼の弁護の労をとった竹内金太郎弁護士は「日本の法律上、かれを死刑にする根拠はないのみか、軍事機密法や治安維持法によって有罪にすることも不当だ」と語っている。


 公判は傍聴はもとより禁止で、被告は私一人です。広い法廷に裁判官四人、検事二人、書記一人を前にして私一人が立っています。小林弁護士(国選)が一人後ろの椅子に座っています。(18年6月1日)

 → 尾崎は小林弁護士のことを「全く弁護の余地のない事件を官命によって押しつけられたわけ」ですから、「本当にお気の毒の至り」と書いている。
 絶対勝つことの許されない法廷のようで、翔年は怒りが湧き上がってきます。

 この頃だんだん色々の物品が手に入らなくなりました。もう売店のものは何もありません。茶の葉もおしまいになりました。チリ紙の切れたのには少し閉口しました。今半紙で間に合わせています。(18年6月24日)

 → この年の2月、ガダルカナル島敗退、4月山本五十六戦死、5月アッツ島守備隊玉砕など、戦況はわが国の不利が次々に明らかになっていたが、国民は大本営発表を信じて戦うことを強いられていた。(現在の北朝鮮を誰が笑うことが出来ましょう)

 
 人生は確かに生きるに値するということになると思います。だが、同時に人生はいつまで進んでも、向上しても、眼界視野が拡がっても、その極みというものはないので、いわば大きな観点から見れば、どこまで行っても同じことだということも知らねばならないと思います。いいかえればいつ人生が終わっても別に変わりはないということです。この二つの矛盾した如き事実を矛盾なく静かに自分の人生観の中に−把握することができなくてはならないと思います。そうする時人は確信に充ち、しかも不安動揺することなく人生を往き続けてゆくことが出来るのです。(中略)

 そこで例えば死についてです。あの人は惜しいことをした、も少し生きていたらば、とか、も少し生きていてほしかったとかいうのは第三者の立場から云い得ることであって、本人にとっては、別に早くもおそくもあるわけではないのだと思われます。(18年七月6日)

 → 彼は最悪の判決を予想し、夫人が心の用意をととのえられるようにしようと、努力している跡が覗えます。
 

 来年は私の考えでは、日本にかんするかぎり戦争の峠だという気がします。頑張って下さい。(18年9月9日)

 → 検閲があるため敗戦という言葉は使っていない。しかし、戦争は継続できないことを彼はちゃんと見通していた。彼の友人達の言によれば、検挙される以前から、彼は日本経済の脆弱性をむしろ過大なほどに指摘していたという。

 大体今の戦時経済の財政を見たら分かるように、金は潜在的には戦前の価値はないわけで、当然のことですが、ただ政府の努力によって、特殊の購買力が保証されているだけです。従って、戦争が終わった時には、古い金銭的蓄積は全部失われるものと覚悟していなくてはなりません。(18年10月1日)

 → 翔年の祖父や父は戦後の無茶苦茶なインフレが襲ってくるまで、そういうことは夢にも思わなかったとよく言っていた。ほとんどの国民はそうだったのではないでしょうか。
郵便貯金通帳をじっと見つめて「国に預けていたから、絶対間違いないと信じてた」とつぶやいて肩を落としていた祖父が目に浮かびます。
 
 担当さんにお願いして領置金(獄舎に預けている金)を調べてもらいましたら百十二円二十三銭あるそうです。8,9,10月毎月十円位しか平均使っていません。弁当を食べていませんと他に何も買いたくても買うものがないのです。後お金の差し入れは不用です。(18年10月30日)

 → 夫人は獄中で彼が不自由しないようにと、苦しい生活費の中からお金を差し入れ続けていた。お互いに辛かったことであろう。

 下巻を読んだら、また抜粋します。





この記事へのトラックバックURL