翻訳者は裏切り者?
カズオ・イシグロの「
日の名残り」、「
わたしを離さないで」、「
浮世の画家」、「
女たちの遠い夏」と「
わたしたちが孤児だったころ」を連続して読んだ。どの作品も水準以上のできばえで、小説の面白さを満喫させて貰ったのですが、翻訳は最初の2冊が土屋政雄、あとは順番に、飛田茂雄、小野寺健、入江真佐子とそれぞれ違った。
「
翻訳(tradcere)はうらぎり者(traditor)のいとなみだ」というフランスの格言があるそうです。むこうへ(trans)導く(ducere)という動詞から生まれた言葉が「翻訳」だという。ここにあるものをむこう岸の人に理解できるように伝達する行為と理解したら、旨い伝達者がいる反面、そうでない伝達者もいることになる。伝達者からみれば、理解力の優れた読者ばかりではないという嘆きになろうか。
3月15日のエントリーで、丸谷才一氏の「土屋政雄の翻訳は見事なもの」というコメントを紹介して、「日の名残り」の伝達者が素晴らしかった喜びを伝えました。
今日のエントリーはその反対で、この伝達ではマズイのではないかと思ったことについて、具体的に述べたい。
まず小説の題名から。
「
女たちの遠い夏」の原題は
"A Pale View fo Hills" です。別の本のカズオ・イシグロの紹介文ではこれが「
遠い山なみの光」となっています。翔年は断然後者がいいと思いますが。
翻訳者の小野寺健は「原題の象徴性を損なうことを恐れながらも、多少とも物語の内容を示唆するものをと考えて工夫した」そうですが、成功しているとは思えません。
次はヘタな翻訳文の例。
「やがて、わたしがまだごく小さかったころに、母がいつも”中国がいかに成熟すべきかに関する、会社とのあいだの深いところでの見解の相違”と言っていることのために彼は会社を辞めた。わたしが彼の存在を意識するほど大きくなったころには、<聖なる木>という慈善団体を運営していて、この街の中国人居住区の状況改善のために活動していた。」
「わたしたちが孤児だったころ」の入江真佐子訳で、飛び切りまずい箇所がここでした。高校生が英文和訳をしているように感じませんか? いくら忠実な訳と言っても、日本語として熟していない、英文が透けて見えるような翻訳は、文学作品の価値を損なうのではないでしょうか。
それでも、ぼくたちは作品を原文で読むことができない以上、翻訳者のお世話にならざるを得ないし、お世話になる以上は、少々の瑕疵があったとしても、翻訳者のその労苦に対して、お礼を言わなければいけないとは思っています。
でも、でも・・・。なんとかしてほしい! 残念です。
ベンヤミンの「翻訳者の使命」が翔年の気持ちを余すところなく指摘してくれている。
「翻訳と言う作業も、原作の意味に似せることではなく、むしろ原作の意図したものを、細部にいたるまで愛の動作をもって、自分のことばのなかで、自らのものとして形成しなければならない。そうすればふたつの陶片がひとつの壷の破片と認められるように、原作と翻訳はひとつの大きな言語のふたつの破片として認められるようになる。」
Posted by mtmt0414 at 16:19│
Comments(5)
komp さま
>編曲は何に近いかと考えると、小説の戯曲化のような、同じ言語内で別形式の作品を作る作業に似ているかも
なるほど。
>クラシック音楽で翻訳に一番近い作業をしているのは、演奏者かも
なるほど、なるほど。
素人にもわかる絶妙な例え話で教えていただき、ありがとうございました。
微妙な難しい問題を、単純に、ぶしつけに、投げつけてしまって、大変ご無礼をいたしました。
「吉里吉里人」は読んでみたい本です。すぐ買ってきます。
続きです。
アレンジで翻訳に近いのは、原曲をほぼ忠実に、他の楽器や編成のために仕上げる作業でしょうか。
ただ、「音楽は世界共通の言語」という言葉もあるとおり、文学と違って原作を誰でも楽しめます。本来翻訳の必要はありません。
じゃあ編曲は何に近いかと考えると、小説の戯曲化のような、同じ言語内で別形式の作品を作る作業に似ているかもしれません。
クラシック音楽で翻訳に一番近い作業をしているのは、演奏者かもしれません。
音符から作曲家の意を汲み取って、それを自分なりの解釈で聴衆(受け手)に伝える。
音楽というとても抽象的なメッセージを翻訳するため、多分に演奏者自身の考えが込められた意訳になりますが。
でもそう考えると、本文の最後に書かれているベンヤミンの言葉は、演奏にも当て嵌まる気がします。
ユリウスさま
※長くなりましたので、コメントを分割いたします。
クラシックの作品をジャズ風にアレンジするのは、翻訳とは少し違うと思います。
それは、例えばバッハをジャズ語に置き換えてみる。とも言えますが、では本来の“バッハ語”を受け手に伝えているかというと、いろんな部分が抜け落ちたり、別のモノが足されたりした、大胆な意訳になっているように思います。
バッハという伝統的な素材を使って、遊び心を交えて新メニューを作り出す感じ。
井上ひさしさんの『吉里吉里人』にあった、ドイツ語もどきの文章がありましたが、それに似ているかもしれない。と思いました。
Kompf さま
>“理屈っぽい音楽家が書いた、皮肉や暗喩に満ちた音楽評論集”の形式で書かれたフィクション
「ひえーっ」、むずかしそう。
音楽を言葉で語ることが至難のワザなのに、それに皮肉や暗喩が織り交ぜてあるとすると難物であろうと想像します。
でも、面白そう!
興味が湧きます。
>なかなか上手い翻訳なのかもしれません?
これはkompfさんの皮肉というより、洞察と解した方がよさそうですね。
一つ質問です。
例えば、クラシックからジャズにアレンジするというような仕事は、翻訳業と似ていますか?
今まさに翻訳本に四苦八苦している私にはタイムリーな話題でした。
「“理屈っぽい音楽家が書いた、皮肉や暗喩に満ちた音楽評論集”の形式で書かれたフィクション」というややこしい設定のせいもありますが、主語が分かりづらい文章や、エントリ内で「ヘタな翻訳」として例示されているような文章が散見され、本筋を辿るのに苦労しています。
こんなときは本当に、原文で読めたら良いのに。と思います。
ただ、この「ヘタな翻訳」的文章も、今私が読んでいる本では必ずしもヘタとは言えないかもしれません。
直訳的な文章が、融通が利かず鹿爪らしい音楽家の性格を良く表している気がするのです。
なかなか上手い翻訳なのかもしれません?
翻訳は、本当に難しい作業だと思います。
素晴らしい翻訳には、もっと賛辞を送らなければなりませんね。