March 31, 2007

城山三郎「小説日本銀行」の思い出

 硬骨漢の作家、城山三郎が亡くなってもう10日が経った。なくなった当座、新聞では主に後期の作品が評価されていたように思う。それはこの作家が真摯に努力を積み重ねてある高みにまで到達されたのだから、ある意味、当然の評価だろう。

 しかし、翔年はこの作家から全く別の特別な恩恵を蒙ったので、極めて個人的な事ながら、それを書いて供養としたい。

 今、書棚にある懐かしい本を取り出して見ると、古い順に「小説日本銀行」(1963年)、「勇気堂々」(1972年)、「官僚たちの夏」(1975年)、「百戦百勝」(1979年)、「落日燃ゆ」(1979年)、「もうきみには頼まない」(1995年)、「花失せては面白からず」(1997年)の7冊があった。ひょっとすると他にも読んだ作品があるかも知れないが、すくなくともこの7冊は読んだことは間違いない。そして、口はばったい言い方ながら、これらの作品は確かに作家の成長と歩調を合わせているように感じるが、翔年がお陰を蒙ったのは、第一冊目の「小説日本銀行」でした

小説日本銀行


 新潮社からこの小説が発刊されたのは1963年(昭和38年)、翔年は大学の3回生、そろそろ社会に出る覚悟をしつつある時期でした。とはいっても、まったくの世間知らずで、口では小ざかしいことは少しは言えるようになっていましたが、実社会のことはほとんど何も知らないことを自分ではよく分かっていました。ですから、かなり不安感を抱いていました。

 この本の裏表紙の宣伝文にはこうありました。
『東大経済学部を優秀な成績で卒業し金融マンとしての理想に燃えて日銀に入った津上浩次は予期していなかった様々な「壁」に突き当たり、困難に直面した。
中央銀行としての日銀の金融の中立性、独立性を護るために日本経済における主導権を確立しようとする総裁の野心と《あの男》を中心とする大蔵官僚のそれを許すまいとする強烈な巻き返しと激突!
日銀マンとしての使命感を喪失して、ひたすら、ことなかれ保身主義の冷たい殻の中に逃避する先輩同僚! 公式的な組合リーダー! 日本橋本石町に厳然とそびえ立つ、日本経済の心臓部である日本銀行に、はじめてメスを入れその内部を・・・』云々。


 これはいい、と思いました。
 翌春からの就職試験や面接を控えた世間知らずの工学部の学生が、小説で実経済や実社会を勉強しようと考えたからといって、あながち攻められない。好きな小説を読んで、ともあれ、知識を得ようとした訳ですから。(今の学生が就職活動前に会社訪問のノウハウ本を読むような感覚)

 第一章の出だしを読んで、いっぺんに気に入りました。これは参考になると。小説の書き出しが「日本経済図説」の解説文で始まっていたからです。

「日銀券は昭和13年以来殆ど間断なく、毎年巨額に増加している。商品の流通高が日銀券のこのように巨額な増発と歩調を共にして増加したとは考えられない。従って・・・昭和13年以来最近に至るまで、インフレは間断なく進行してきたことが推定できる。
 日銀券増発の速度が特に激しかったのは、昭和16年から19年に至る太平洋戦争の間と終戦から24年のシャウプ案の実施までの時期である。この時期には、日銀券は加速度的に増加している。太平洋戦争中、日銀券が増発されたのは、戦争の遂行のためであった。政府は公債を日本銀行で日銀券にかえ、その金で戦争遂行に必要な軍需品を買い入れたのである。日銀は、手持ちの公債を売りに出して、一たん発行された日銀券を吸収しようと試みた。太平洋戦争中、毎年、相当巨額な民間資金が日銀に回流しているのはそのためである。しかし、日銀の引き受けた政府の公債はそれより多く、結局、加速度的に日銀券の発行はふえたのである。終戦後、終戦に伴う色々な事務を処理するため、政府の支出は著しく膨張した。民間の企業家は、その復興のために巨額の資金を必要とした。政府及び民間に、所要の資金を供給したのは日銀であった。日銀は、日銀券を増発して資金に対する需要を満足させた。その結果日銀券は加速度的に増加したのである。」

 この硬さはどうですか? しかし、小説は読まれなければならない。物語のその先は、就職した主人公を中心にして、先輩や同僚、恋人、国許に残してきた母や妹の生活苦など、人物の描き方は類型的ながら、小説として読める工夫は十分なされていた。

 秘書課に配属された主人公が、現金輸送車にヤミ米を積んで赤坂氷川にある日銀氷川寮に搬入し、GHQを接待している現実を知ってあっけにとられる箇所では、間もなく自分もこんなこんな世の中へ出なくてはいけないのかと、ますます先行きに不安を募らせたりもしました。

 要するに当時、翔年は小説を楽しむと言うより、正義感の強い主人公に自分を重ねながら、擬似社会勉強をしていたことになります。それにはぴったりの小説でしたから。

 そして得た結論は、日銀のようなシッカリした組織でも、これだけ不正義が横行しているのなら、商売をしている民間企業はもっとひどいに違いない。出来るだけこういう世界には近づきたくないということと、そんな日銀だけど、通貨の価値を維持すると言う中央銀行のミッションを果たすことに情熱を傾ける日銀マンが少数とはいえいることを知って、自分もそういう使命感を持てる職業につけたらいいなという思いを抱いたことでした。

 就職はそんな甘い思いだけで決められるものではありません。いろいろ紆余曲折はありましたが、それでも結局、高度経済成長を支えると言うミッションを持ち、しかも販売に齷齪する必要がないという好条件の、社会に必需の電気エネルギーを供給する仕事に就けたのは、今思うと、城山三郎の「小説日本銀行」が影で作用していたのではないかと言う気がしてなりません。

 今、この小説をあらためてぱらぱらっと読み返すと、日銀の使命や組織や社会はよく描けているのに、複雑な存在であるべき人間が、善玉と悪玉とハッキリ描き分けられているのが不満です。今の翔年は人間を真摯に生き生きと描くことによって、その人間が生きて生活している現場は自ずから浮き彫りのごとく見事に描写されている小説のほうが好みです。

花失せては

 思わず言わずもがなを書いて、初期の作品にケチをつけてしまった。これはまずい。著者が敬愛してやまない山田教授の生き方・考え方をテーマにした風変わりな小説「花失せては面白からず」がとても気に入っているので、これを読者にお勧めして、城山三郎の追悼に替えさせていただきたい。(合掌)

4/2追記
 「山田先生の卓説」
「私は社会主義(計画経済)も資本主義(自由経済)も、それぞれ事実認識のバイアスを修正しながら、なお並存しつづけると思っている。計画経済における自由化と計画経済における計画化との間には優劣は定めがたい。自由が必要だから計画は不要とか、分権が必要だから集権は不要だと断ずることは短絡的に過ぎる。(中略)
 問題は、自由化・民主化といっても手放しでよいわけはなく、必ず誘導・調整が必要なのだが、それを独裁に走らずにやるにはどうするかにある。いずれの体制でもそれを模索しているのである。私はむしろ資本主義の将来を心配している。」



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