March 02, 2007

続・シェイクスピアは面白い −リチャード三世

 シェイクスピアの「リチャード三世」は『爽快なるピカレスクドラマ(悪漢芝居)』だという。そうかも知れない。が、翔年はちょっと違うのではないかという感想をもった。

 それを述べるためにはどうしてもあらすじが必要となる。幸い、角川文庫(三神勲訳)のカヴァーに橋本治氏の解説があるので、ちょっと長いがこれを引用することをお許し願います。

リチャード三世

『薔薇戦争も終結し世の中に平穏が訪れた頃、容姿に恵まれず身体的なハンディキャップも負っていたグロスター公リチャードは、王となりすべての人々を嘲笑し返そうと屈折した野心を燃やしていた。やがて彼は、兄王エドワードの病死という好機を逃がさず、暴虐の限りを尽くして王位を奪う。しかし、明晰な頭脳を誇ったはずの彼にも思わぬ誤算があった・・・。シェイクスピア初期の傑作歴史劇。』
※薔薇戦争=1455年から1485年までの三十年間続いたイギリスの有名な内戦。


 いろいろと面白い場面のことを言いたいのはやまやまですが、とりあえず、上のあらすじにあるとおり、リチャード三世は悪漢であることを認めてください。それも日本人にはとても考えられないほどの悪人です。シェイクスピアはそういう人物を、これでもか、これでもかとばかりに描くので、たいていの読者も、(まだ翔年は舞台を見ていませんが多分)観劇した人も、この主人公に眼が眩むに違いありません。主人公だから、眼がいって当然なのですが、ようく見ると、余りにもわざとらしい極悪人なのです。

 それに反して戯曲を読んでいると、この悪漢の脇に居る人物群が実に面白いことに気がついた。通常、我々は権力におべんちゃらばかり言う人を嫌う。また、節操のない人を毛嫌いする。ところが、どうでしょう、このドラマの脇役たちは、ほとんどがそういう行動をとる小物ばかりで、実のところ我々観客と同じ人間なのです。恥ずかしながら、権力に媚びず、へつらわず、毅然とした態度で居たいのはやまやまながら、なかなか現実にはそうもいかない。我々だって、毅然とするには、経済的に差し障りがあったり、縁戚関係に差し障りがでたり、もっと内面的なもの、たとえば自分の本心を他人に明らかにできないようなこともままある。

 非難されることを覚悟で、女性の例をとって言えば、年下の王をたらし込んで新しいお妃に収まったエリザベス、王に頼って、自分の兄と先夫との間にできた息子たちを出世させる。これだけでも結構嫌な女です。ところがなんと、王子である自分の二人の息子をリチャードに殺されてしまった後、「娘をくれ」と言われて「この悪魔の誘惑にのったものだろうか?」と、よろめくのです。当時の女性は男に頼って生きるより道がなかったのだということもできますが、強いものに靡く性向とか、計算高さとか、本来美しいはずの女たちが醜態を晒す。

 男にいたってはもっと支離滅裂で、どいつもこいつも魅力がない。ぶっちゃけて言えば、普通心の中では考えても、まず行動しないようなことまでも、臆面もなくやってくれるお調子者やエゴイストばかりなのです。自分の心の中がそのまま舞台で演じられているような気がしました。

 絶対君主の周りに居る人間模様が、ビビッドでたいへん面白かったので、舞台もぜひ見たい。


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この記事へのコメント
いつも、ありがとうございます。
舞台からはずれたのか、落ちたのか、すみません、また落ちるかもしれませんが、そのときはお助け下さい。
両刃の剣を振る舞うような善悪二元論は書籍やシナリオや絵画の中にありますが、音楽にはないような気(雑音はあっては困る)がして、行動や言動が雑音となる、ならないようなところから振幅・周波数に比喩しました。私はこのごろ善悪論から遠ざかっていまして、心地よい振幅・周波数と悪だと言われるような行動を含めて雑音くらいに考えています。表現のまずいところはたびたびですが、またご指導の程よろしくお願い致します。
(蛇足です、ヒトラーのしたことは雑音、ほかにも沢山いますが。)

Posted by 奈良のO at March 07, 2007 21:24
奈良のO さま

振幅・周波数の比喩はよく理解できません。
寺山修司の詩のエキス、これも分かりません。
Posted by ユリウス at March 06, 2007 23:40
翔年が書かれる言葉や文体の流れは”中振幅・中周波数”にように感じられ
いつも心地よく受け入れられます。この舞台の登場人物のリチャード三世、
エリザベスは”大振幅・高周波数”、すなわち無線や電気の技師から察すれば、”雑音”と思われ、他の登場人物は”小から中振幅・低から中周波数”という見方ができるように思われました。これらが入り混じった人間模様の舞台はさぞかし面白いかもしれません。
亡寺山修司氏の詩からの美劇がありますが、その詩の少しのエキスをお借りしますと、愛と涙、どっちが高い「寺山修司」。産み落とす愛は決して新たな愛は拾えず。風そよぐ苦しさなく勇気に変わるとき新たな愛が拾える。欲を捨てればこんなに楽なことはない。人知れず愛知れず終わる可哀相な人はいる。だが、人を知り愛を知り悲しく終わる人もいる。(奈良のO)
Posted by 奈良のO at March 06, 2007 20:12