塩野七生著「ローマ人の物語23(危機と克服)」を読み進んでいる。前巻の「危機の克服(中)」で塩野さんは政治と宗教との問題を「ユダヤ人問題」として提起されている。
ローマの歴史の中で「紀元66年夏に勃発し73年春にマサダの玉砕で終結する『ユダヤ戦役』がある。これはローマ帝国内に住む属州民が覇権者ローマに対して起こした独立運動ですが、この戦役の場合、政治的側面よりも、彼らの宗教との関係が大きなファクターになっていると思いました。
例えば、政治と宗教について、塩野さんはこう言います。
「ギリシャやローマに代表される多神教の神々は、人間を守りその行為を助ける存在でしかない。ユダヤ人の奉ずる一神教の神は反対に人間にどう行為すべきかを命じ、それに反しようものなら罰を下すことも辞さない存在である。こうであれば当然の帰結だが、多神教の民族では政治と宗教は分かれているのに反し、一神教の民族では、宗教が積極的に政治に介入してくる神権政体にならざるをえない。」
最近、世界中で頻発している主にイスラム教徒が関係している紛争は同根に見えます。アイデンティティを一神教に求める人たちは、翔年の理解を越えていますし、困った存在に見えて仕方がありません。
では、ローマの歴史ではどうであったか?
「(前略)征服者であるローマ人は被征服者たちを自分たちと同化し、ローマ帝国という運命共同体の一員にするよう努めてきた。ギリシャ人もスペイン人もガリア人も北アフリカの人々も、ローマのこの敗者同化路線に賛同し参加をこばまなかったのに反し、ユダヤ人だけが、一神教を理由に拒絶したのである。しかも、同化を拒否しただけでなく、神権政治樹立にあくまで固執し、その樹立を許さないローマに反抗をやめなかったのである。」
そして「シカリオイ」(殺人者)とよばれたテロ集団が暗躍し、ユダヤ全域に広がっていったと言います。
その結果、遂にローマ軍とユダヤ人が戦闘状態に入るのです。ユダヤ人は唯一神が守るイェルサレムが、異教徒のローマの手に落ちるはずがないと信じて・・・。
社会の「普遍」とユダヤの「特殊」の対決と見ました。
ユダヤ人は「唯一神のみが、われわれの主人である。その神を奉じた政体の国家樹立こそ、われわれの自由は捧げられるべきなのだ。ゆえに、この自由のないところでは、死さえも取るに足らないことでしかない」と信じて戦いますが、イェルサレムは落城します。この攻防戦での死者は110万人にも上り、その大半はユダヤ人だったそうです。
それで思い出したのが、我国の歴史で祭政一致の神ながらの道を目指した「神風連」一派です。
幕末から明治にかけて、徹底的な尊皇攘夷の活動を貫きました。面々は夷狄(イテキ)を憎むあまり、西洋渡来の電信線や洋服、紙幣まで忌み嫌ったのです。「まつりごとはいずれも神命を承けて行われるべきであるが、神命を承けるには敬虔の限りを尽して、宇気比(ウケヒ)によるのほかはない」とし、神意は宇気比という秘儀によって占われ、彼らは無謀で勝算のない戦いに突入していきました。雄々しきやまと心は神の庇護のもとにあるという幸福感に満ちたものであったらしいのですが・・・。
上の2例と全く同じ過ちを犯して、われわれは神権政治の昭和天皇のもとで、米国(連合国)と戦い、そして敗れました。
翔年は人類が到達した「普遍的な価値」(自由、平等など)と合理性を大事にしたいと考えます。したがって、古代の「特殊性そのもの」である天皇制や古代からの思想を今に至るまで引きずっている宗教が政治に参加することは、極力排除すべきと考える者です。「真心」とか「至誠」とか「信念」という言葉は美しいですが、純粋であろうとするあまり、「シカリオイ」になったり「神風連」になったりする人々が増える社会に戻ることに手をかさないよう、注意しなければならないと思っています。